【記事】文芸一覧
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JRの車掌と小学校の先生、さらにはアナウンサーにもなってみた件 第1章 電車を見ると泣き止む子ども | 村山 茂
私は昭和29年に兵庫県西宮市で生まれた。阪神電車の香櫨園駅のすぐ南側で、そのあたりは当時ほとんどが田園地帯であり、のどかな環境にあった。
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しかし、多くの人々が〈金八先生〉を待望しても、なかなかに難しいことも承知しているはずです。
学校の先生と言っても、一般の会社員と同様、特別な人がなっているわけではありません。専門性はもちろんありますが、医者や弁護士を見る目とは違うでしょう。 -
このような世界に類のない役割を担った日本の学校では、先生は校内で勉強さえ教えていればいい、というわけにはいきません。
先生は、子どもの健康状況、家庭の状況、生活実態を把握しながら、教科学習だけでなく、行事や課外活動、部活に生活指導、家庭訪問、地域のイベントへの協力など、広範囲に活動することになります。 -
日本では児童や生徒が何か問題を起こした時だけでなく、卒業生も含めて何らかの事件・事故が起きると、出身学校の教育のあり方が問題視されます。その場合、学校内の指導上の事故・事件に限らず、広く校外のことであっても、学校の教育責任が問われます。
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【第3回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(2)
1864年9月8日、長州藩が和議を請うために、伊藤俊介の案内で、使節代表宍戸刑馬(高杉晋作)ら3名が来艦(ユーリアラス号)する。艦上に来た時、高杉晋作はLucifer(魔王、坂田は悪魔と訳している)のような高慢な態度をとっていたが、徐々に態度を変え、すべての提案をなんら反対することなく承諾した。
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【第2回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(1)
回顧録によると、主権者たる将軍と、2、3の手に負えぬ大名との間の、政治的な闘争である。これは、将軍が無力で、その閣老が無能なため、宗主たる将軍家を無視するに至った結果である。そして、神聖な日本の国土を〝夷狄〟の足で侵させ、貿易による利得を、すべて国家の領主たる将軍家の手に収めようとしている。それはまた、ペリーの日米和親条約(1854年3月、安政元年)と、後のハリスが結んだ日米修好通商条約(1858年6月、安政5年)に対する不満を抱いた闘争であると。
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日本語を操る幕末の英国外交官サトウは、佐藤でなくSatowである。てっきり日本人との間の二世かと早合点していたが、シナと日本の通訳生3名の外交官試験に、トップで合格した正真正銘の英国外交官である。薩摩英国戦争や長州との下関戦争にも通訳官として参戦し、また、関東以西の各地(四国、九州まで)を英国公使代理の名代で、駕篭や馬に乗り、藩主の大名たちを訪問する。
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日本は徳川幕府による238年の間、限りなき太平の夢をむさぼっていた。サトウの言葉を借りれば、日本は森の中に眠れる美姫にも似ていた。国家太平の夢を守る役職の人たちは、姫の安眠を妨げるハエを、扇で追うよりも容易な仕事をしていたのである。
姫の夢が、活動的で旺盛な、西洋人の出現によって破られた時、昔からのしきたりに凝り固まった、年老いて皺くちゃの番人たちには、その職責には耐えられなくなった。そのために、日本を取り巻く、様々に変化する情勢にうまく対応できる、もっと適任な人たちに自分の席を譲らなければならなくなったのである。 -
後世の歴史を知る我々からみると、この「川中島の戦い」という合戦は、武田や上杉といった、それぞれが独力で天下を狙える実力があった戦国大名が、十年以上にわたって足の引っ張り合いを行なっただけという、まさに時間のロスと見ることが出来る。
事実、後にこの地を訪れた豊臣秀吉は、「はかのいかぬ戦をしたものよ(無駄な戦さをしたものだ)」と、信玄と謙信をなじったと伝えられるが、たしかに「天下布武」へと突き進む織田信長の戦いに従事していた秀吉の感覚からみれば、そう映ったに違いない。 -
史実が伝える「川中島の戦い」とは、以下の五回の武田軍と上杉軍との激突を指す。
・第一回戦:天文二十二年(一五五三)八月
・第二回戦:弘治元年 (一五五五)七月
・第三回戦:弘治三年 (一五五七)八月
・第四回戦:永禄四年 (一五六一)九月
・第五回戦:永禄七年 (一五六四)八月 -
【第1回】第六章 勘助に学ぶ失敗の本質(不祥事に際しての身の処し方)
北信濃への信玄の進出の前に、長年にわたり立ちはだかっていた村上義清であるが、ついには、勘助の盟友・真田幸隆の謀略により、難攻不落を誇っていた戸石城を奪われてしまった。
以来、戸石城は信玄の北信濃攻略の前線基地となり、もはや、義清には戸石城を奪還する気力もなく、ついには天文二十二年(一五五三)に信玄に本拠地の葛尾城を攻められると、戦わずして、小県にある支城・塩田城に落ち延びた。 -
『甲陽軍鑑』の作者は、信玄の偉業を肯定するあまり、意図的に信虎を貶める表現を多用していることは明白である。
では、なぜ、信玄は実父を他国に追放しなければならなかったのだろうか?
その理由については、当時の武田家の統治体制や組織に注目することで、読み解くことが出来る。 -
ここで我々は、時計の針を信玄と勘助が面談した天文12?年(1543)から、2年ほど前に戻してみることにしよう。
天文10?年(1541)、信玄は実父・信虎を駿河の太守・今川義元の元に追放した。これは、事実上の信玄による無血クーデターであったが、その原因は、信虎自身による、数々の失政や悪行と呼ぶべき振る舞いにあったと伝えられている。 -
これまで、我々は山本勘助サイドから、武田家への就職の経緯について眺めてきた。
しかし、就職後の勘助の活躍をトレースするにあたり、実は勘助の就職前の武田家側の事情や状況を把握しておかなければ、彼がどういう役割を期待されていたのかを、正しく理解することは出来ないだろう。 -
さて、日本陸軍参謀本部といえば、明治4年に兵部省に設立された陸軍参謀局に始まる戦前の軍令の管理機関である。そこでは、軍事行動に関する研究が日夜、行なわれていた。
明治期の「軍事研究」といえば、興味深い逸話も残っている。
この陸軍参謀本部では、参謀課将校が配属されているが、彼らを養成する機関として、陸軍大学校が創設された頃の話である。
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