【第3回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(2) | マイナビブックス

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アーネスト・サトウの見た明治維新

【第3回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(2)

2015.01.05 | 山崎震一

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③幕府側との交渉訣別

 1864年9月8日、長州藩が和議を請うために、伊藤俊介の案内で、使節代表宍戸刑馬(高杉晋作)ら3名が来艦(ユーリアラス号)する。艦上に来た時、高杉晋作はLucifer(魔王、坂田は悪魔と訳している)のような高慢な態度をとっていたが、徐々に態度を変え、すべての提案をなんら反対することなく承諾した。そして、その交渉の間に伊藤は、外国船攻撃は将軍から1回、ミカドからは再三の命令を受けて行動したのだと説明し、ミカドと将軍から受け取った、外国人を日本から放逐せよとの命令書の写しを提示した。

 後のサトウの述懐では、前年の夏に、長州藩はミカドから攘夷の詔勅を強引に引き出した(extorted)とある。4か国代表たちは、この休戦協定の賠償金支払いは、長州一藩では不可能と判断しており、伊藤から預かった京都の命令書の写しを証拠に、長州藩が当然支払うべき賠償金を幕府に請求する。また、それらの代案として、その支払いが不可能なら、下関か瀬戸内海の一港を、通商のために開港すべきとの条件も提示した。その背景には、再着任した英国公使ラザフォ-ド・オールコック卿は、賠償金の強要よりも敵意を有する諸大名が、ミカドの名をもって絶えず行ってきた、外国との通商条約反対運動を終息させ、ミカドの条約批准を獲得することであった。

 また、当時は諸外国も金銭を欲していなかった。日本との関係の改善に役立つならば、いつでも喜んで賠償金を放棄したであろう。その反対運動の2大張本人、薩摩と長州藩が、外国勢力に対抗できないことを知った今、幕府は将軍の名で、日本全国を強制的に、新しい対外政策に従わせることも容易にできると思えた。しかし、真から外国人嫌いの攘夷派の筆頭、ミカドに反論できない幕府は、新たに兵庫の開港を許可するよりは、長州藩が支払うべき賠償金(300万ドル)を支払うことに、4か国代表との間の協定書に調印する(1864年?10月?22日横浜)。

 しかし、翌年の4月、幕府の閣老から、1回?50万ドルずつ6回にわたっての支払いが、不可能だとの覚書を本国のラッセル卿が知り、その指示で、代わりに、ミカドの条約批准の約束(兵庫港開港)と輸入関税を5%まで引き下げることを再度要求する。この後の、幕府の小笠原壱岐守(かみ)長行と阿部豊後(ぶんご)守正外(まさと)との幾度かの交渉でも、この4か国提案には、幕府側は承諾できず、4か国提案に屈服するよりは、むしろ第2回分の賠償金を支払ったほうがましだとの考えに至っていた。

 外交団には、この頃には条約の締結には、ミカドの勅許が欠かせないことを理解していたが、幕府は下関戦争後の調停条約が、ミカドの勅許を得る力がないのか、得ることを好まないのか判断ができなかった。そのために、この先進められる交渉の過程では、衰退しつつある徳川幕府の後押しをすることは、英国にとって好ましい策でなく、もはや、はっきりと将軍を見捨てなければならいとの考えに至っていった。

 その間、第14?代将軍徳川家茂(いえもち)が建白書をミカドに提出する。そこには、一般国民のためにはもちろんのこと、ミカド自身のためにも、条約批准は必要であると奏請していた。それが朝廷側に拒否されると、将軍は江戸へ立ち返ることを決意し、大阪へ向かった。しかし、朝命が下り、江戸への帰ることの差し止めとなった。その後も、将軍後見職の一橋慶喜の更なる献言と、これに応じなければ自身も腹を切るつもりであるとの明言により、ミカドもついに通商条約批准に同意された(1865年?11月?24日、慶応元年。近代日本が始まったことになる)。

 しかし、兵庫の先期開港(1866年1月1日)については、不勅許であった。その結果、関税率は5%に引き下げられたが、すでに決定していた兵庫の開港は、1868年1月1日(慶応3年?12月7日)まで延期されることになった。文久遣欧使節、竹内下野守らの開市開港延期談判条項の再確認となる。しかし、賠償金の残余の分割支払いは、維新後の新政府の大きな負担となっていった。後になり分かったことだが、ミカドの承認とは、外国事務処理は、将軍に委任するという、3行ほどの短い布告文書に過ぎなかった。その上、兵庫と大阪を貿易港として開く案の、削除を命じる修正条項も加えてあったのである。ミカドは真の底から外国人嫌いで、あくまで幕府に頼りきっていたことがわかる。

 維新後サトウは、もし兵庫が1868年1月1日以前に開港していたら、革命派は革命の好機を逸することになっただろうと述べている。