【第2回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(1) | マイナビブックス

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アーネスト・サトウの見た明治維新

【第2回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(1)

2015.01.05 | 山崎震一

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第Ⅱ章 英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析

 

①サトウが着任した1862年(文久2年)9月ごろ

 回顧録によると、主権者たる将軍と、2、3の手に負えぬ大名との間の、政治的な闘争である。これは、将軍が無力で、その閣老が無能なため、宗主たる将軍家を無視するに至った結果である。そして、神聖な日本の国土を〝夷狄〟の足で侵させ、貿易による利得を、すべて国家の領主たる将軍家の手に収めようとしている。それはまた、ペリーの日米和親条約(1854年3月、安政元年)と、後のハリスが結んだ日米修好通商条約(1858年6月、安政5年)に対する不満を抱いた闘争であると。その後、サトウが着任した6日後の1862年9月?14日(文久2年)、上海の商人リチャードソン殺害事件(生麦事件)、翌年1863年1月31?日、建築中の英国公使館放火事件(高杉晋作、久坂玄端、志道聞多、伊藤俊介ら長州藩士)が勃発する。英国の外務省は、前者に対して10?万ポンド、後者に対して1万ポンドの賠償金を請求せよとの訓令を、英国公使代理のニール大佐に送った。そのほか、薩摩藩主に対しては、犯人の尋問と処刑を、また、2万5千ポンドの支払いの訓令である。

 この時、将軍と主な閣僚は京にいて、江戸を留守にしていた。ニール大佐は江戸湾深く、艦隊を派遣する。その結果、江戸市中は大混乱になったとある。外国奉行の竹本正雅(まさつね、甲斐守)は幕閣の意向を伺うため、急遽京都に上洛する。江戸に立ち戻った5月?25日にニール大佐と会談する。その席で竹本甲斐守は、英国の要求に応じ難いのは、大名たちの反対があるからと説明する。それらに対して、ニール大佐は、英国とフランスの軍隊は将軍を援助し、攘夷派を排除し、その鎮圧に力を貸すことを示唆した。また、条約を締結したからには、将軍に履行の義務があることを強く迫った。当時は、ミカドに無限の権威があることに、考えが及ばなかったからである。

 竹本甲斐守は、その申し出に対して、将軍の名において感謝したいが、将軍は自己の権威と兵力によってのみ、大名との間の疎隔の解決に努むべきで、外国の援助は辞退せざるを得ない。また、仮に英国が薩摩を攻撃すれば、将軍も他の大名も、薩摩と行動を共にせざる得なくなるとだろうと返答した。そのほか、幕府は、賠償金の分割払いには同意している。しかし、他の大名たちは、これらの措置を知れば、幕府に対する反抗を、より強固なものにするかもしれないと心配していた。

 この時期、ニール大佐は上海のブラウン少将に2000名の兵員派遣を要求していたが、軍隊派遣は不可能であり、不承知であるとの返書が届いていた。6月24?日、老中格小笠原長行が、賠償金?44万ドル(?11万ポンド)の受け渡しと、その見返りに3港(横浜、長崎、函館)の閉鎖、在留外国人の国外撤去を諸外国代表に通告した。そして即日、2000ドル入りの箱を馬車に積み、3日間かけて支払った。この通告に対して、ニール大佐は文明国と非文明国とを問わず、あらゆる国の歴史に類を見ないことであり、これは条約締結国全体に対する日本自身の、宣戦布告にほかならないと反論する。また反面、日英条約上の責務を従来より一層〝満足な、そして強固な基礎に置くために、合理的にして肯定することの手段〟を速やかに公表させ、また、これを実施させることも、両国元首の可能とすることだと述べた。

 

②1863年8月?15日(文久3年)の薩英戦争と1864年9月5日(元治元年)下関戦争後

 これまでの、幕府側との度重なる交渉の経験から、将軍の家臣たちは、上下関係が強く、また、幕府側の行為には裏表がある(後で触れるが、孝明天皇が大の外国人嫌いで、攘夷に凝り固まっていた。そのために、幕府側は勅許を得ることが出来ず、右往左往していた。筆者注)。その結果、英国外交団は、幕府側との交渉に対して、嫌悪の感情を抱き始めていた。

 それらに対して、薩摩藩の謝罪と賠償金2万5千ポンドの支払い(幕府からの借用金のまま維新を迎えた)、また、長州藩の英国留学生、志道聞多(しじぶんた、井上馨)、伊藤俊介(伊藤博文)の働きもあったが、下関戦争の休戦協定前後の長州人は、忠実に約束を守った。これらのことから、長州人は、信用に値すべき人たちであるとの認識を与えていた。また、薩摩人にせよ、長州人にせよ、交戦したにも関わらず、英国人の行為に対して、なんら恨みを抱く様子もなく、その後の騒乱と革命の幾年月の間、常に英国人の最も親しい盟友となっていったと述懐している。