【第2回】第一章 日本の学校と〈金八先生〉 ―(2) | マイナビブックス

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<金八先生>になってはいけない

【第2回】第一章 日本の学校と〈金八先生〉 ―(2)

2015.01.07 | 林 敏也

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(2)〈金八先生〉が待望されるが・・・

 

 このような世界に類のない役割を担った日本の学校では、先生は校内で勉強さえ教えていればいい、というわけにはいきません。

 先生は、子どもの健康状況、家庭の状況、生活実態を把握しながら、教科学習だけでなく、行事や課外活動、部活に生活指導、家庭訪問、地域のイベントへの協力など、広範囲に活動することになります。

 また、対象相手は一人ではなく、?30人も?40人もいるわけですから、大変な労力がいります。それに、?人全員が大過なく過ごしてくれればいいのですが、それぞれ1人の人間として悩みあり、問題あり、というわけで、ときには暴力やいじめ、万引きや薬物依存などの犯罪にまで至る場合もあります。

 そうなると、常識的に一人の先生が対応できるものではありません。子どもたちのトラブルや問題行動は日時を選びませんから、すべてに対応していると?24時間営業になってしまいます。普通の先生ではとてもすべてに対応することはできませんから、残念ながら守備範囲からこぼれる事件や事故が起きることがあります。

 それでも〈金八先生〉なら大丈夫。逆境をものともせず、持ち前のパワーと人間力で乗り越えていきます。(それをドラマチックに表現したのがテレビや映画です。)

 こういう理想的なスーパーモデルのイメージを刷り込まれていくと、保護者やマスコミの人々はそれを基準に教育現場をとらえる傾向が出てきます。

 学校(校外も含む)で事件や事故が起きたときの矛先は、まずは先生個人の姿勢・資質・能力に向けられ、理想モデルの〈金八先生〉と比較し、少しでも至らない点があれば強烈に批判します。そして、先生個人からその学校へ、さらには日本の学校教育そのものへの糾弾へとエスカレートしていきます。

 近年の学校バッシング・先生バッシングにはかなりひどいものがあります。多くの学校・先生方は日々黙々と真面目に教育活動に取り組んでいるにもかかわらず、一部の問題を日本の先生全体の問題、学校教育全体の問題のように考える傾向が強くあります。

 とうに学校や先生を清廉潔白で神聖なものとしてとらえて、尊敬の念を抱くような時代ではなくなりました。先生も自分たちと変わらない同じ生活者だとわかっています。にもかかわらず、保護者やマスコミの学校・先生への要求水準はより高くなっているように思います。