【第1回】泣いたら電車を見せてやって | マイナビブックス

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 私は昭和29年に兵庫県西宮市で生まれた。阪神電車の香櫨園駅のすぐ南側で、そのあたりは当時ほとんどが田園地帯であり、のどかな環境にあった。家の前は広い田んぼで、秋になるとおもしろい形のかかしが現れる。かかしが何のためにあるのかも分からなかったが、物心ついたころから毎年心待ちにしていた。赤ん坊の頃、私の機嫌が悪くて泣き止まないときは、庭に出てかかしを近くで見せると泣き止んだ。

 かかしの季節以外は風景に特に変化はなかったので外に出て、阪神電車が走っているのを見せると、ピタッと泣き止んだそうだ。阪神電車はツートンカラーで、急行と普通では色もちがいとても鮮やかだ。そして高速で走る電車は、速さと色とさっそうとした音で、子どもの目にはとても勇ましく見えた。これをきっかけに1歳に達していない頃から電車に興味を持った。

 

 

 5歳になって阪急電車今津線の沿線に引っ越した。この線を走っている電車は茶色1色のなんとも殺風景で、車両もモーターの音も古めかしい感じだったので、阪神沿線に戻りたい気持ちにもなった。

 それからは阪急今津線に乗ることが多かった。たまに国鉄東海道本線と立体交差しているところを通る電車に乗ることもあり、当然そこを見た。そこは複々線になっており、阪神電車よりもたくさんの種類の電車や長い貨物列車が走り、スケールのちがいに圧倒された。

 家族は両親と姉が3人の6人。父親は会社員で、いつも朝早く出かけていき夜遅く帰ってくる。土曜日は半ドンで日曜日は休みだが、話をすることはほとんどなかった。しかし存在感は大いにあり、特に新しい事には目ざとく、これから役に立つと思えばどんなことにも出資をする考えはすばらしかった。

 昭和33年(1958年)にテレビを購入した。もちろんそのころはカラーではなく白黒だが、5万円もした。当時の父親の月給は1万円もなかったぐらいだったから、そうとう張り込んだものだ。近所でもテレビがある家は記憶がない。それでも駄菓子屋で煎餅でも買ってきたように

「テレビを買ってきたよ。」

 と淡々と言う姿に尊敬した。

 母親は私が生まれる前は幼稚園の先生をしていた。私が生まれてからは専業主婦であったが、幼稚園にあったと思われる本の内容をよく覚えていて私によく読みきかせをしてくれたのを覚えている。

 私は長男だが末っ子だったのでみんなから甘えん坊だと言われていた。特に長女と次女は私と年がかなり離れていたので、私としては保護者が4人いる感じだった。甘えているつもりはないが、家族構成からそのように受け取られたようだ。自分としてはそう言われるのがいやだった。それに何でもやりたかったのだが、自分でできるようなことでも、間違うかも知れないとか速くできない等で、やらしてもらえないだけだった。2歳上の姉も同様に不満を持っている様子だった。特に、女だから自分も料理を手伝いたい気持ちが強く持っていた。

 そういう思いから、私たち2人はあとの4人の家族がいないときにこっそりと冷蔵庫からトマト1個を取り出して、姉がまな板の上にのせて包丁で半分に切り、続いて私もその半分を半分に切って4分の1にし、またもう一方の半分を姉が半分に切って、4分の1個を2つずつ食べたことがあった。

「おいしいね。またやろうね。」

「うん。これぐらいかんたんやね。」

 といつもはあまり好きではないトマトの味が格別だった。母の買い物はあまり計画性がなかったので、冷蔵庫にいろいろと入っていたからトマトが1個ぐらいなくなっても分からなかった。それに包丁やまな板やお皿等もきちんと元に戻しておいたので、何もなかったようになった。しかし、母が帰ってくるとすぐにばれてしまった。

「2人の口からトマトのにおいがします。でも、2人でうまく切れたのはえらいよ。これからは、少しずつ手伝ってもらうわ。」

「勝手にやってごめんなさい。さすがにお母さん、トマトのにおいがわかるなんて。」

「歯磨きをしておけばよかったね。」

「いつもはこんなときに歯磨きをしないのに、そんなことをしたら歯磨き粉のにおいで分かります。」

 このときに母の存在も大きいことを思いつつ、これからは正当なやり方でやっても挑戦できることが分かった。