【第3回】信玄と謙信の同床異夢 | マイナビブックス

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戦国サラリーマン 山本勘助③

【第3回】信玄と謙信の同床異夢

2014.12.25 | ナリタマサヒロ

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信玄と謙信の同床異夢

 

 後世の歴史を知る我々からみると、この「川中島の戦い」という合戦は、武田や上杉といった、それぞれが独力で天下を狙える実力があった戦国大名が、十年以上にわたって足の引っ張り合いを行なっただけという、まさに時間のロスと見ることが出来る。

 事実、後にこの地を訪れた豊臣秀吉は、「はかのいかぬ戦をしたものよ(無駄な戦さをしたものだ)」と、信玄と謙信をなじったと伝えられるが、たしかに「天下布武」へと突き進む織田信長の戦いに従事していた秀吉の感覚からみれば、そう映ったに違いない。

 考えようによっては、きわめて、粘着性の強い両軍の衝突だったと見ることも出来るが、ここで興味深いのは、この戦いに際しての、信玄と謙信の受け止め方の違いである。

 秀吉が指摘するように、信玄の場合、後に上洛を悲願とし、足利義昭の求めに応じて、信長討伐へと乗り出すことになるわけであるが、そうした目的に向かって自らの軍事行動を転換するのは、皮肉にも、信長による天下統一行動の影響であった。

 ところが、謙信にいたっては、この第一次「川中島の戦い」の直後に、早々と上洛し、後奈良天皇に拝謁した折に、「私敵治罰の綸旨」を得ている。

 これにより、長尾景虎(後の謙信)と敵対する者は賊軍とみなされ、謙信は武田氏と戦うことに対する大義名分を得た結果となった。

 さらに、この前年には関東管領の上杉憲政が、北条氏に敗れて越後に逃げ、関東管領職と上杉家の家督を譲り受けたことから、永禄二年(一五五九年)には、二度目の上洛を果たし、足利将軍義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許されているのだ。

 つまり、信玄にとっては、信濃統一という領土的野心に基づく局地戦の延長という、ミクロな視点や短視眼的な発想から脱却出来ていなかった状況だったのである。

 一方、謙信には、天皇や足利将軍といった、中央の統治機構に接近しながら、それを自国の領国防衛や同盟に基づく私闘を正当化する、自らの権威付けや大義名分作りを行なった上で、正々堂々と局地戦へと没頭しているのである。

「同床異夢」という言葉があるが、信玄と謙信は「川中島」という同じ戦場に立ちながら、まったく別の価値観で鎬を削っていたわけである。