川中島の戦いとは
史実が伝える「川中島の戦い」とは、以下の五回の武田軍と上杉軍との激突を指す。
・第一回戦:天文二十二年(一五五三)八月
・第二回戦:弘治元年 (一五五五)七月
・第三回戦:弘治三年 (一五五七)八月
・第四回戦:永禄四年 (一五六一)九月
・第五回戦:永禄七年 (一五六四)八月
この足掛け十二年におよぶ合戦は、そのほとんどが信州・川中島というワンポイントで繰り広げられているということからも、日本の合戦史上、極めて、珍しい戦闘記録である。
「川中島」と聞けば、なんとなく、大阪の中之島のようなイメージを思い浮かべる向きもあると思うが、実際は、信濃北部の善光寺平と呼ばれる盆地の南で、犀川と千曲川が合流する三角状の平坦地を指しているのだ。
当時のこの地は、多くの沼地が広がる単なる荒地であり、決して経済的価値が高いわけでもなく、武田・上杉両軍の領土的野心に起因する争奪戦の地だったわけでもなかった。
しかし、両軍にとっては、戦略上、極めて重要な地域であったことは、間違いない。
まず、武田軍にとっては、この地の北に位置する善光寺を手中に収めることにより、信濃国全域に領国支配を行き渡らせることが出来るわけであり、佐久の村上氏を追った後は、その延長線上に位置するこの地への侵攻は、当然の帰結であった。
一方、上杉軍にとっては、武田軍のような領土的野心はなかったにせよ、北信濃以北に勢力を構える高梨氏や井上氏ら北信濃国人衆らが武田軍の圧迫を受け、次々に亡命してくる情勢を受け、見過ごせない状況になっていた。
特に、高梨氏とは同盟関係にあったことから、いわば、代理戦争といった事情により、上杉としては、北信濃での紛争に介入せざるをえなくなった事情があったのである。