武田家の抵抗勢力
『甲陽軍鑑』の作者は、信玄の偉業を肯定するあまり、意図的に信虎を貶める表現を多用していることは明白である。
では、なぜ、信玄は実父を他国に追放しなければならなかったのだろうか?
その理由については、当時の武田家の統治体制や組織に注目することで、読み解くことが出来る。
統治論や組織論的な視点で見てみると、信虎は自らの代に、武田家を従来の守護大名から、戦国大名へと脱皮させようとし、強力な中央集権化を断行しようとしていた。
しかし、急激な改革には、当然、抵抗勢力の出現を伴うものであり、武田家においても、古くからの国人領主たちが、この信虎の改革には激しい拒否反応を示した。
こうした抵抗勢力を排除していくプロセスにおいて、信虎は数多くの「手討ち」を行い、中央集権体制の強化のために、酷税を科すこともあったことだろう。
そうした行為の数々が、のちに暴君伝説として、脚色されることになったわけであるが、抵抗勢力の国人衆たちは、ついには父との折り合いの悪かった、若い信玄を擁立することで、我が身の安泰を図る無血クーデターを実現させたわけなのである。
我々現代人の感覚では、武田信玄と聞けば、戦国きっての専制君主のように映るが、実は、その実態は、多くの国人連合の盟主的な存在であることを義務づけられていたのである。
それゆえ、信玄の統治は、合議制により運営されていたのであり、有名な「武田二十四将」として、部下共々描かれる姿も、そうした体制の実情を物語っているのである。
かくして、若き日の武田信玄は、実父を追放するという暴挙を強いられた訳であるが、いくら、下克上や骨肉相食む戦国の世とはいえ、信玄のこの行為は、仏の道に背く、「不孝の極み」として、その後、長きに渡って、信玄がライバルの上杉謙信や織田信長に激しく指弾される要因となった。
信玄自身にとっては、決して、無血クーデターではなかったのである。