【第1回】第一章 日本の学校と〈金八先生〉 ―(1) | マイナビブックス

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<金八先生>になってはいけない

【第1回】第一章 日本の学校と〈金八先生〉 ―(1)

2015.01.07 | 林 敏也

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(1)日本の学校は「何でも屋」?!?

 

 日本では児童や生徒が何か問題を起こした時だけでなく、卒業生も含めて何らかの事件・事故が起きると、出身学校の教育のあり方が問題視されます。その場合、学校内の指導上の事故・事件に限らず、広く校外のことであっても、学校の教育責任が問われます。校長先生や教頭先生、あるいは教育委員会の先生がインタビューされるだけでなく、謝罪する場面を見ることも多々あります。

 日本の学校は、校内での学習だけでなく、子どもたちの生活についてもかなり広い範囲で教育責任を負っている、と言えるのですが、これは世界的には珍しいようです。

 世界の学校を調べると、だいたい?3つのパターンに分類されるそうです。

 1つはヨーロッパ大陸型で、とにかく勉強中心。クラブ活動も生活指導もほとんどなし。フランスなどは「校門の前までは親の責任、校門の中は学校の責任」と徹底しているそうですし、ドイツの学校も生活指導や教育相談はほとんど行わないということです。勉強以外のことはプライベートの事情であり、学校側は関知しない、というスタンスです。

 次のパターンは、イギリス・アメリカ型で、校内では勉強だけでなく、スポーツや芸術などの課外活動・クラブ活動もさかんで、進路相談や生活相談も行います。日常生活の指導・助言もする生活指導の体制が整備されていて、子どもの私的活動についてもある程度責任を持つ、という立場です。イギリスと関係の深いオーストラリア・カナダ・ニュージーランドなどの諸国の学校も同様です。

 そして、もう?1つが社会主義型で、旧ソ連や北朝鮮のような思想教育型、労働重視型の学校です。

日本の学校はイギリス・アメリカ型の学校方式が伝搬されてきたのですが、よりいっそう広い形で守備範囲を広げているという点で、かなり特徴的です。日本の教育の歴史を追うとわかりますが、日本の学校は子どもの教科学習だけでなく、生活全般に責任を持つ、という独特の学校文化を継続・発展させてきたと言っていいでしょう。

 したがって、全方位型教育を続けてきた日本では、学校が広範囲に教育責任を負うと同時に、保護者や子どもの側でもそれを期待する、という状況が生まれ、ともすれば学校や先生の責任範囲が無限大に広がってしまうという可能性さえもっています。

 また、当然ながら、保護者や子どもの期待は「自分一人(自分の子ども一人)を見てほしい」という傾向がありますので、先生は担当する子どもたち個々が満足するような教育も要求されます。数十人と言う集団について教科学習や生活全般の指導を行うと同時に、個々の子どもが満足する個別の指導もするため、膨大な時間がかかることになります。

 

(2)〈金八先生〉が待望されるが・・・

 

 このような世界に類のない役割を担った日本の学校では、先生は校内で勉強さえ教えていればいい、というわけにはいきません。

 先生は、子どもの健康状況、家庭の状況、生活実態を把握しながら、教科学習だけでなく、行事や課外活動、部活に生活指導、家庭訪問、地域のイベントへの協力など、広範囲に活動することになります。

 また、対象相手は一人ではなく、?30人も?40人もいるわけですから、大変な労力がいります。それに、?人全員が大過なく過ごしてくれればいいのですが、それぞれ1人の人間として悩みあり、問題あり、というわけで、ときには暴力やいじめ、万引きや薬物依存などの犯罪にまで至る場合もあります。

 そうなると、常識的に一人の先生が対応できるものではありません。子どもたちのトラブルや問題行動は日時を選びませんから、すべてに対応していると?24時間営業になってしまいます。普通の先生ではとてもすべてに対応することはできませんから、残念ながら守備範囲からこぼれる事件や事故が起きることがあります。

 それでも〈金八先生〉なら大丈夫。逆境をものともせず、持ち前のパワーと人間力で乗り越えていきます。(それをドラマチックに表現したのがテレビや映画です。)

 こういう理想的なスーパーモデルのイメージを刷り込まれていくと、保護者やマスコミの人々はそれを基準に教育現場をとらえる傾向が出てきます。

 学校(校外も含む)で事件や事故が起きたときの矛先は、まずは先生個人の姿勢・資質・能力に向けられ、理想モデルの〈金八先生〉と比較し、少しでも至らない点があれば強烈に批判します。そして、先生個人からその学校へ、さらには日本の学校教育そのものへの糾弾へとエスカレートしていきます。

 近年の学校バッシング・先生バッシングにはかなりひどいものがあります。多くの学校・先生方は日々黙々と真面目に教育活動に取り組んでいるにもかかわらず、一部の問題を日本の先生全体の問題、学校教育全体の問題のように考える傾向が強くあります。

 とうに学校や先生を清廉潔白で神聖なものとしてとらえて、尊敬の念を抱くような時代ではなくなりました。先生も自分たちと変わらない同じ生活者だとわかっています。にもかかわらず、保護者やマスコミの学校・先生への要求水準はより高くなっているように思います。