【第2回】信玄の父・信虎の乱行 | マイナビブックス

100冊以上のマイナビ電子書籍が会員登録で試し読みできる

戦国サラリーマン 山本勘助②

【第2回】信玄の父・信虎の乱行

2014.12.25 | ナリタマサヒロ

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

信玄の父・信虎の乱行

 

ここで我々は、時計の針を信玄と勘助が面談した天文12?年(1543)から、2年ほど前に戻してみることにしよう。

天文?10年(1541)、信玄は実父・信虎を駿河の太守・今川義元の元に追放した。これは、事実上の信玄による無血クーデターであったが、その原因は、信虎自身による、数々の失政や悪行と呼ぶべき振る舞いにあったと伝えられている。

『甲陽軍鑑』によれば、信虎の行動がこのように紹介されている。

信虎は、粗暴で傲慢な性格であり、諫言した家臣をたびたび手討ちにしたり、さらには、妊婦の腹を生きたまま裂くまでの残虐な行動を数多くおこなったと伝えられている。

しかし、この言葉をそのまま受け取るのは、いささか、早計である。

たしかに、信虎当時の武田家は、清和源氏以来の血統を誇る守護大名から、実力本位の戦国大名へと脱皮を図る時期であり、それゆえの産みの苦しみを抱えていた。

近隣の諸豪族と合従連衡や政略結婚による同盟を繰り返し、盛んに他国へ侵攻していたことからも、信虎という武将は、戦術家として卓越した能力を持っていたことが伺える。

また、信虎追放の直後に、信玄は山本勘助を中途採用し、5人の足軽大将の1人に据えているが、実は、この足軽大将という職制は、信虎時代に作られたものであり、こうして、信虎は、諸国より有能な浪人を招いては、自らの家臣団に加えていたのである。

そうして、有能な新参者を抱えていれば、その一方で、無能な古参者を排斥したり、手討ちにする行為も日常的に行なわれていたことであろう。

妊婦の腹云々というエピソードは、古代中国の暴君伝説に由来する典型的な逸話であり、江戸時代においても、大名の改易にまつわる乱心話として、各地に伝わってくる。

もっとも、粗暴で傲慢な性格というのは、どうも事実であったらしい。

事実、後に80?歳になった信虎が孫の勝頼と初対面した際にも、いきなり、抜刀して白刃を振り回したという逸話も伝えられているほどである。