軍事顧問メッケルの誤算
さて、日本陸軍参謀本部といえば、明治4年に兵部省に設立された陸軍参謀局に始まる戦前の軍令の管理機関である。そこでは、軍事行動に関する研究が日夜、行なわれていた。
明治期の「軍事研究」といえば、興味深い逸話も残っている。
この陸軍参謀本部では、参謀課将校が配属されているが、彼らを養成する機関として、陸軍大学校が創設された頃の話である。
明治政府は、富国強兵政策の下、早急に軍制を整備する必要に迫られていたことから、欧州の地で、フランスを圧倒する強大な軍事大国であったドイツ(プロイセン)に対して、軍事顧問の派遣を要請していた。
この要請に基づき、兵学教官として着任したのが、ドイツ陸軍のクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル参謀少佐である。
メッケルは、それまでの日本の軍制が、徳川幕府以来のフランス流だったことへの反発もあって、徹底的に軍事改革を行ったという。
いわゆる、お雇い外国人の1人として、日本の近代化に大きく貢献したわけである。
このメッケルにある時、日本の軍人が「関が原の戦い」の諸大名の陣形図を見せた。すると、彼は、一目見て、「この戦いは、西軍が勝ったに違いない」と断言した。
たしかに誰が見ても、関が原の布陣は、西軍に有利に配されていた。ところが、結果は歴史が語るとおりである。
メッケルは、東軍の勝因が、西軍の諸大名に対して盛んに行われた「調略」の結果、多くの大名の離反や寝返りなどを誘発したという事実を知らされると、改めて、戦争における「諜報活動」の必要性を再認識したという。
そして、以降の軍事講義においては、特にこの「秘密戦」の重要性を力説したという。
つまり、当時の軍事先進国の教官であっても、日本の戦国時代の「インテリジェンス」の効力には、一目置かざるを得ないほどの戦略的効果があったのである。