【第4回】たか女の話(4) | マイナビブックス

詩、短歌、俳句の新しいカタチを探ります。紙から飛びだした「ことばのかたち」をお楽しみください

たか女綺譚

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【第4回】たか女の話(4)

2015.06.30 | 外山一機

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 わたくしが俳句を始めたのは大正の中頃でございましたが、ぽつぽつと俳壇に女の現れ始めた頃でしたので、ずいぶん心の支えになりました。先日お亡くなりになったかな女様やみどり女様、それから久女様のお句も好きでした。いえ、わたくしのような者がこうした方々に実際にお会いできるはずもございません。もしお会いする機会があったとしても、あえてお会いすることはなかったように思います。…申し訳ない、そうです、申し訳ないという気持ちがいっとう強いように思います。
 かな女様のお名は例の草干の手紙以来何となく気になっていたのですが、お句やお人柄を知ったのは結婚してからでございました。あるとき草干の書棚を整理しておりますと、ぱたと足元に落ちたものがございます。それは『風知草』の最新号で、何ですか、わたくしはかあっと顔が赤くなりました。妙に聞こえるやも知れませんが、わたくしはそれまで『風知草』を拝見したことがなかったのでございます。白地に向日葵の大きく描かれたその表紙を拾い上げると、私は、何だか無性に中を覗いてみたくなったのでございます。おそるおそる目次を開いてみますと、「長谷川かな女と其の俳句」という題で草干が書いているのです。何でも、かな女は虚子先生が認めた当代きっての女流俳人で、夫もまた長谷川零余子という高名な俳人である。日本橋に生まれ、現在は柏木にて飯島みさ子とその母百合女と共に「かたばみの葉会」という句会を催している熱心ぶりである、と。そしてかな女様のお句がいくつか紹介されておりました。わたくしはその一つ一つを、それこそ舐めるように読みました。でかな女様とはどんな人だろうかと、想像を盛んに膨らませたのでございます。
 草干がかな女様についてこれほど知っていたことで、何か悔しいような心持にもなりましたが、それよりもわたくしの心を動かしたものは、かな女様のご生家がわたくしの住まっておりました日本橋だったということでございます。わたくしは余程世間知らずなのでしょう、かな女様のお住まいになっていたことなどつゆほども存じませんでした。それからわたくしは母に、気が塞ぐのでちょっと散歩に行ってまいりますとだけ告げると、うろうろと出かけてしまったのでございます。もちろんその時分にはかな女様はすでに柏木にお移りになっておりましたし、もとより日本橋にかつてお住まいがあったというだけで、それが日本橋のどこなのか、今もその建物が残っているのかさえわかりません、けれどもかな女様がお住まいだったと思うだけで、いつもと同じ近所の景色もまるで違って見えるのでございます。わたくしの胸は高鳴るあまり、あちこち歩き回ったはずですのに、どこか夢遊病者のようで、どこをどう通ったのかまるで何も覚えてはございません。
 そうこうしているうちに、空も黄昏てまいりました。少し歩き疲れて立派な松の木のある家の前にぼんやり立っておりますと、その家の門の内から一人の女性が出てきました。その女性を見た途端、わたくしは思わず声をあげそうになりました。と申しますのも、その女の方は、あのお花さんに瓜二つなのです。お花さんに似たその女性はわたくしを訝しげに一瞥しますと、やや小走りでどこかへ向かったようでした。お恥ずかしい話ですが、わたくしはつい後をつけたのでございます。けれども先方はわたくしに気がついたのか、さらに足を速めると夕闇の中に溶けてしまったのでございます。
 それからわたくしが我が家に帰りますと、家の周りがひどく騒がしいのです。わたくしはようやく我に返って家の中に飛び込みますと、女中の沙代が真っ青な顔をしているので「どうしたの」とわたくしが聞きますと、ご主人様が、ご主人様が、と言うばかりで後が続きません。何度も何度も問い質すうちに、草干が先ほど電車にはねられて病院に運ばれたこと、母はたった今その知らせを聞いて病院へ向かったことを知りました。わたくしは腰が抜けたようでその場に座り込んでしまいましたが、誰かが車屋を呼んでくださったらしく、ようやく病院まで参りました。草干は背中を強く打ったらしいのですが、意識ははっきりしておりました。が下半身はそれきり不随になってしまい、お医者様のお話ではもう元に戻ることはないだろうとのことでした。幸い命に別状はないとのことでひとまず安心いたしましたが、草干はぼんやりと遠くを眺めているばかりで、それを見ているうちにわたくしは何ともいえぬ罪深いような心持ちになってまいりました。わたくしがあの女性を追いかけたばかりにこんなことになったのではないか。いえそもそもは、わたくしがかな女様に心を動かされたのがいけなかったのではないでしょうか…とにかく、わたくしは俳句はもうこれぎりにしようと思いました。
 
   春の夜のをんな手恋ふはわりなけれ   たか女
   化物の皆無帽なる白牡丹
   櫻貝飛行機乗りにはなりたくなし
 


2015.6.30