【第13回】別の女の話(5) | マイナビブックス

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たか女綺譚

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【第13回】別の女の話(5)

2015.09.01 | 外山一機

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「酢豆腐」という落語をご存知でしょうか。私も子供の頃、お菓子目当てで父について寄席に行った時分に聞き齧ったぎりですけれども…。むやみに粋がった男がございまして、その男が腐った豆腐を食べさせられるんです。男のほうはそれがまさか豆腐の酸えたのだなぞとは知りませんで、男の友達が、そりゃ一体何という食べ物だとからかいますので、苦し紛れに、これは酢豆腐でげすとか言うんです。何かおかしいようですけれど、こんな笑い話が私にはひどく恐ろしくて、しばらく豆腐を口にできなかったんです。
 三つ子の魂と申しますけれど、結婚しても私の臆病風は相変わらずでございました。ですからたか女が我が家を突然訪ねていらした時には大変な驚きでした。初めてお会いしたたか女さんは、どちらかというと地味な様子で、この人があの燃えるような句をお作りになっているとは、一寸想像しにくいようでした。
「ちょうど近くに来ていたものですから」
 その言葉の調子がいかにも言い訳めいておりましたので、私はやはりどきりとしました。お昼時分でしたけれど、その日はたまたま主人が帰ってきておりまして、三田村草干の妻が来たと聞くと妙に色めきたちました。主人は恐縮するたか女さんを無理に座敷へ連れていって、例の、虚子先生がどうのという話をしておりました。たか女さんも私もあまり話しませんでしたが、それまで幾度かお手紙をしておりますので、おのずとお互いどこか通じ合っているような気がしました。
 ややあって、たか女さんは思い出したように風呂敷包みを取り出しました。手のひらに乗るほどの小さな箱のなかに入っていたのは、黄白色のまるい塊でした。かすかに酸っぱいような蒸れたような匂いがいたします。主人は一目見るなり、やあこれは珍しいとか、さすが草干先生ですななぞと頻りに感心しておりました。
「どうぞ一口召し上がってください」
とたか女さんはおっしゃいましたが、ええ、私にはそれがどうにも酢豆腐にしか見えませんでしたけれど、いつまでも躊躇しておりますのはもっと恐ろしいように感じられましたので、ほんの小指の先ほどの大きさにちぎってようやく口に入れたんです。後で気がついたのですが、あれはチーズだったんでしょう。あるいは本当に酢豆腐だったのかもしれません、けれどもそのときには何やらわかりません、ただ薄くしょっぱい酸っぱい味がいたしまして、舌の上がにちゃにちゃしたのを覚えております。それでたか女さんは私が食べるのを凝視と見ているようでした。その後も私の主人が何か喋っているようでしたが、私は指先に残ったそれの滓が気になりましたが、何故かたか女さんがこちらを見ているように思われましたので席を立つ訳にも行かず、ただもうそわそわとしておりました。たか女さんが帰った後でたまらずひとり指先をこすり合わせると、ぷんと乳臭い匂いが立ちました。
 
長梅雨や澱のごとくにシヤツ残る   たか女
鮎食べて踏切越えてしまひけり
まひまひの鳴くてふ村や捨箒
 

2015.9.1