【第1回】たか女の話(1) | マイナビブックス

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たか女綺譚

たか女綺譚

【第1回】たか女の話(1)

2015.06.09 | 外山一機

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 何ですねえ、つい先だって長谷川かな女様がお亡くなりになりまして…。この間あなたからお手紙をいただきました時には、わたくしの身の上をお話したところでどうということもないという気持ちと、逆に、我が身の恥を晒すようでどうしても嫌だという気持ちとが半々だったのでございますが、何ですか、かな女様がお亡くなりになったとうかがいましてから、無性に寂しい感じがいたしました。で愚痴になるやもしれません、本当のところはお話しできないとも思います、がわたくしの寂しさの根もとにあるものをこのまま誰にも告げずに死ぬのはいっとう寂しゅうございますので、勝手ながらおうかがいしたのでございます。
 わたくしの生まれは日本橋でございます。父はさる大店の番頭をしておりました。母は江戸時分にはそれなりに身分のある家に生まれまして…それは躾に厳しゅうございました。わたくしはその長女でございます。男の子をという願いは無論あったでしょうが、結局私が生まれてすぐに父は亡くなりましたので、わたくしは父のことを存じません。母が私に厳しかったのは、ですから、母であるのと同じくらい父として精一杯に演じているところもあったように思います。
 無論読み書きなどは教えてもらえません。その代わり十二になりますと、お屋敷に奉公にあげられました。皆様おっしゃいますが、家を出されるときは本当に寂しいもので…。奉公ですか、実は一月で逃げ出したんです。お花さんという先輩女中がおりましてね、舶来の皿をうっかり割ってしまったんです。お花さんはひどく臆病なところがありまして、わたくしその皿が砕けるのを目の前で見ておりましたのですけれど、ただでさえ色白のお顔を、もう真っ青になさって、へなへなと腰を抜かしてしまいました。そこへそのお屋敷のお嬢様がいらしって、お花さんの顔をご覧になるなり何か声をお掛けになったのですが、お花さんはただ震えるばかりで何も答えません。が、お嬢様はすぐに足元の砕けた皿に気づいて「まあ、怪我はなかった?」なんてお優しくなさるので、わたくしは、ああ、と思いました。と申しますのも、まだほんの一月ですけれども、親のいない寂しさ辛さを経験したばかりでしたので、お嬢様のお優しさが何かひどくありがたいものに思われたのです。
 お嬢様はわたくしの方をお向きになると、
「見たのはお前だけなの」
とお聞きになりましたので、わたくしはただ首肯くばかりでした。すると、
「このことは内緒にしておくれ。そうして、もし誰かがこの皿のことを聞いたら、お前がやったということにしておくれね」
とおっしゃいます。ちょっと妙に思いましたけれど、お花さんはわたくしより前に勤め始めた身でございます。同じ失敗でも新参者のわたくしがやったのであればきっと罰も軽くなるのだろうと合点しまして、またこくりと首肯いたのでございます。お嬢様は「いい子ね」とだけおっしゃるとお花さんの方に向き直りました。それから手の甲に接吻なさるとすぐに行ってしまわれたのです。
 わたくしはいろいろなことが一時に起こったためにただぼんやりと立っておりました。お花さんはまだ震えておりましたが、改めてその顔を見ますと、何とも言えず美しいのです。怯えのあまり小さく開かれた唇や伏した眼の端に小刻みに揺れる睫毛などを見ているうちに、お嬢様の接吻した理由が子供ながらにそれとなく理解されました。それからわたくしは急いで皿を片付けましたが、お花さんは相変わらずへたり込んだままどこか遠くを見ているようでした。
 皿の一件以来、お花さんは徐々に弱っていくようでした。何か、精気がなくなるというんですか、頬は落ちて眼の周りまで窪んできたように思われました。けれどもそのことでかえって以前の美しさに壮絶さが加わったようで、ますます凄いように思われました。ある夜のことでございます。夏でしたが、昼の暑さも薄らいで少し肌寒いくらいでございました。ただ蛙の鳴く音が不思議と屋敷の中にまで響いておりました。お嬢様のお部屋の前を通りがかったとき、わたくしは衣擦れのような音がお部屋のうちから漏れているのに気づきました。何とはなしに襖から中を覗くとお嬢様とお花さんの姿が見えました。その途端、体の内側を絞られるような痛みと鋭い熱さとが、足の先までほとばしるのを感じました。そうして、気がつくとわたくしは我が家の戸を叩いておりました。母は、普通ならばそのまま放り出してしまったのでしょうが、わたくしの様子があまりおかしかったのでございましょう、それきり奉公先へは戻さずにおいてくれました。
 だいぶ俳句から離れたお話をしてしまったようで…がわたくしにしてみれば、どうしてもこれはお話しておかねばならないことなのでして、人の業といいますか、そんなものにかどわかされながら俳句を作るうちにうかうかと生き延びてしまったわけでございますので、その業の見初めといいますか、そんなところからお話させていただいたのでございます。
 
   菖蒲湯に女ばかりよ日本橋       たか女
   夏草や人形にある袖袂
   どの箸も濡れてをりけり金亀子
 


2015.6.9