【第9回】川へ行く | マイナビブックス

詩、短歌、俳句の新しいカタチを探ります。紙から飛びだした「ことばのかたち」をお楽しみください

草の立つ山

草の立つ山

【第9回】川へ行く

2015.08.08 | なみの亜子

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 西向きの山の夏はなかなか暮れない。夕方の散歩は、あっぢっぢーとやけっぱちな濁音を響かせながら山を降りる。二頭の犬も息あらく舌を垂らし、前のめりに歩を運ぶ。旧十津川街道である国道を渡り、赤い鉄橋をくぐって道の下に広がる谷へ。このへんから空気が変わる。ああ涼しいなあ。水の流れが風をたてている。行こや行こや、川やで。犬はリードを外してもらって、大急ぎで川に入る。顔と背だけが水面から出る深さで立ち止まって、そのままながくながく、人がしみじみと湯につかるように川の水につかる。
 いま六十代の村人が子どもの頃は、水泳といえばこの川まで来て習ったそうだ。もっと昔には、奥の山から伐り出した杉や檜を、この川の流れに運ばせた。木を扱う人はだから谷に住み、業を営んだ。川沿いの谷道を遡上すれば、天川の渓谷へとつながる。逆向きに下へ下へ下っていけば、いずれ吉野川、紀の川と合わさる。いくつもの流れと出会っては別れつつ、流域にゆたかな恵みをもたらしてきた川。どんなに力強い水流だったか、瀬音はどんなふうに山間を満たしていたか、一生懸命想像してみる。それほどにいま犬がつかる川は薄くくぐもって、体力が衰えているように見える。
 あちこち護岸工事したり、ダムができたり、下水設備がなくて生活排水もいっしょくたに流すところに、昔はなかった人工的な物質がまじったり。川が弱った原因はどれか一つではなく、長年にわたる複合的なものなのだろう。結局は人のすること、してきたことなんやなあ、と雄犬に話しかけてみる。彼はしかし、引っかかり引っかかりしながら目の前まで流れてきた西瓜の皮に心を奪われ中。皮の内側の瓜いろ部分に、うっすらと人の歯形が見える。雌犬はと見ると、岸に大量にうち捨てられた玉蜀黍の皮の山に鼻を突っ込み中。まあ季節感はよう漂ってるわなあ、とつぶつぶ言いもって顔をあげれば、カワセミが低くするどく私の帽子のすぐ横を抜けてゆく。
 いつものとこまで行こ。ゴム長靴でしゃばしゃばと川の水を分けて歩く。岸の砂地にはいくつもの鹿の足跡。来るたびに新しい。すこし離れて、遊びながらついてくる犬。流木の細いのをくわえては、ばりばりと噛みくだく。川底にある獣の骨らしきものを取ろうと、左前足で掘る。掘れば川砂が水中で回って、たちまち水がにごる。不思議でたまらん、いう顔で何度もやる。そのうちに鼻先から顔を水に突っ込む。秒速で顔をあげ大きなぷるぷるをする。しぶきが飛んできて、もう冷たいなあ。
 別の山から迸り降りる流れとの合流地点、Yの字になったところが一番の涼風スポット。この谷の腹の底だ。ざあざあざあざあ。脚のはやい奔流が風と水を放ち続ける。絶え間ない、永遠の、終わりも始まりもない川の流れ。大小の無数の川石はしゃんと不動で、もうどれくらいながく水に研がれてきたのか。いつまでも見飽きない。ざあざあざあざあ。なんか元気出てきた。ぺちゃこ石を探し集め、最初の一つを手の平に握る。いくで。川の面すれすれを跳ばせた石が、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつめのジャンプで向こう岸へ上陸する。犬が後を追って川を走る。川の水が跳ねる。勢いよく跳ねあがる。

 

2015.8.8