草の立つ山
山で見ると無敵にかっこいい、ということが鳥にもあるのではないか。街に降りるとそんなでもなくて。とんび。まんなかの「ん」でゆったりするのが似合う気がして「とんび」と書くけど、漢字の「鳶」にもとんびの感じがよく出てる、と思う。ちょっといかつ目のフォルム。ガタイのでかい、かさばる奴だ。こぢんまりとはまとまらないワイルド感。上下も左右も対称におさまらずはみだす。なのに、全体としては絶妙の存在感とバランス感を放っているのが、とてもいい。
この山のとんびは、「とんび」と「鳶」の両方を体現する。なんでやろ。街場や海辺で人の飯を狙ってたり生き物の死骸に群がったり。鴉ほどではないにしろ印象悪めの鳥であるとんびが、このへんの山では群れず佇む男前の鳥になる(※あくまで個人の見解です)。なんでなんやろ、そう思いながら遭えば見上げ、見とれ、飛んでゆく姿をながく見送ってしまう。観察と考察を続けてひとつ思うことは、標高何千メートルの高峰でなく、まれに人家がぽつんとある隙間だらけの、見栄えのしない姿をただただ数だけは並べているこの山並みが、とんびという鳥の身の丈にしっくりきているのではないか、ということ。互いをのびのびと生かし合うサイズなのだ。この際、〈水を得た魚〉は〈山を得たとんび〉と言い換えてもいい気がするんだけどな。
風を読み風に乗って飛ぶとんび。高い建造物といえば、点々と山のてっぺんまで電線をつなぐ電柱くらいのこの山で、しばしばとんびはその先端にとまり風を待つ。翼をごく自然に両脇におろし、胸を張るでもなくしゅっと立って。力の抜けた直立不動。構えを感じさせない構え。時に犬がその存在に気づき吠える。知ったこっちゃねえ。風情は孤高の旅人。少し突き出た胸はもう旅先へ出立の時へと向かい、風をはらむ。
どんなタイミングなのか、今だ、ととんびが翼を広げ上昇する、その一瞬の動きの巨きさ、迫力。静から動へ、瞬間の空に繰り広げられる静謐でダイナミックな物語。あっ、と息を吞むその間にもう鳶は、みごとな十字のかたちで電柱を後にしている。そこに羽ばたく動作はほとんどない。大きな身体を体重などないかのごとくふうっと気流に乗せ、同時にひらいた翼で悠々と空を飛ぶ。とんびが両翼を広げたその端から端までは、150~160㎝になるという。私の背丈がまんまおさまる。低空へ降りて二度三度と旋回すれば、その影がふっふっと地上を暗くする。空と山々の起伏に富んだ世界が、その滞空技術のたっぷりさで満たされてゆくひととき。高く低く、まあるくまっすぐ、急ぐでもなく着実にとんびは高度をあげていく。
山と山の谷あいはるか上空から、ピーヒョロヒョーと声がする。小さくなったとんびが、その声の届き方で見えない空の高みを見せてくれる。そこに見慣れたはずの山の尾根や稜線が、未知の起伏をもってそびえたつ。ずっと見上げていたら天地の感覚や平衡感がおかしくなって、まるで去ってゆくとんびが帆をあげて空という海をすすむ帆船だ。ピーヒョーピーヒョーの語尾がふるえて聞こえなくなるまで、その行方を心に追う。とんびの渡っていった空が、仰向けの視界にどこまでも果てしのなさを更新してゆく。