【第9回】この地球でも(福間健二) | マイナビブックス

詩、短歌、俳句の新しいカタチを探ります。紙から飛びだした「ことばのかたち」をお楽しみください

POETRY FOR YOU 2

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【第9回】この地球でも(福間健二)

2015.08.03 | 福間健二+文月悠光

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 そこでも、雨の粒が屋根にあたって音を立てているだろうか。そして、動物はいるだろうか。いるとしたら、いちばん賢い動物はどんなふうだろう。彼女は雨の音になかば目ざめながらふと思った。道具や機械を発明したり改良してきたりしただろうか。指は二十本、歯は三十二個、かな。そうだったよね。雨の音が少し弱くなって、聞きおぼえのある少年の声がした。いま、どこにいるの。彼女は少年にではなく自分に問いかけたつもりだったが、少年が答えた。ここだよ。どこ。この地球だよ。彼女ははっきりと目をさました。少年の姿はどこにもない。その声も聞こえない。彼女はベッドから出た。窓をあけて外を見た。雨はあがっているが、あまり明るくない。午前六時半をすぎたところ。どこかのラジオが鳴っている。NHK第一、ラジオ体操だ。この町の大学のグラウンドでもラジオ体操をしている人たちがいることを彼女は知っていた。散歩する人たちもいる。この地球の人間は体操をしたり散歩をしたりするのだ。腕が二本、足が二本。指が二十本。道具や機械を作ってきた。彼女は少年の声を思い出した。少年がだれだかわかった。いや、最初からわかっていた。もう少年じゃない。彼は二十六歳で、彼女より二つ上だ。彼女は、きのうの午後、図書館で彼に会った。きょうの夜も会う。そう約束した。彼女はその約束を破らないだろう。きのうは日曜日で、彼女は仕事が休みだった。午前中は洗濯と掃除をした。午後、図書館に行ったあと、姉夫婦の住むマンションに行き、夕食をごちそうになった。姉はもうすぐ二番目の子どもが生まれる。義兄はラップがものすごくうまい。夜、自分の部屋に戻ってから、図書館で借りてきた本を読んだ。きょうは仕事だ。彼女は市役所に勤めている。児童保育課。相談にやってくる若い母親たちがうるさい。朝九時から午後六時すぎまで。きょうは無理にでも、そこで切り上げる。それから彼に会う。喫茶店で会い、それからきっと居酒屋に行く。彼は酒を飲む。まだそんなに親しくないが、彼は少し酔って彼女とセックスしたがるだろう。そうなってもいいと思って会うことにしたのだ。心に素直に生きるって、どういうことなのか。きのう、この地球の、この町の、図書館の前の道で、それがわからないと彼は言った。そのとき、彼の目がきれいだと彼女は思った。彼は彼女の自転車のサドルを高くしてくれた。その手、その指、人間だと彼女は感じた。雨が降りだしていたが、二人はしばらくそれに気づかなかった。

 

2015.08.03