【第13回】彼女の好きな詩人(福間健二) | マイナビブックス

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POETRY FOR YOU 2

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【第13回】彼女の好きな詩人(福間健二)

2015.08.31 | 福間健二+文月悠光

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 本を大事にしない。きみはそうやって自分を主張しているんだね。昔、大野先生が彼にそう言った。彼は五階からエレベーターを使わずに階段をおりた。途中、木村さんに会った。木村さんの笑顔は大野先生の笑顔に似ている。はにかむ男の笑顔だ。辞めたんだって。木村さんは知っていた。木村さんは十歳以上年上だったが、いばらない。大野先生もいばらなかった。木村さんは、お金もらったかと心配してくれた。働いた分だけはちゃんと貰わないとだめだよ。どんな辞め方したってな。わかってます。でも、おまえみたいなやつは二度とこの業界で働けないようにしてやるって言われました。専務か。あいつにそんな力があるものか。彼は木村さんの静かな話し方が好きだった。二人だけで飲んだのは一度だけ。そのとき、ぼくはきみのような人間が怖かったんだよと木村さんは彼に言った。どうしてですか。怖そうだから。怖くないですよ。うん、怖くはない。親しくなってみればね。その夜も木村さんと飲みたいと思ったが、誘う言葉を言いだせないうちに、今度また一杯やろうと先に言われてしまった。アパートに帰り、散らかっていた部屋を片付けてひとりで飲んだ。肉野菜炒めをつくり、ウイスキーをほとんど一本飲んだ。今度の仕事は一か月半もった。もった方だ。酔ってそう思った。いない彼女の影を感じた。彼女が戻ってくるかどうか。自信はなかった。三日前、彼が帰ってくると、きちんと整理されたテーブルの上に置き手紙があった。旅に出ます。ここには戻りません。彼女とは一年以上つきあった。いなくなったのは初めてではなかった。本気で心配していなかったが、ちょっと心配になった。彼は彼女と別れたくなかった。本棚の、彼女の本の列を見た。一冊だけ消えているのに気づいた。彼女がいちばん好きだと言った詩人の詩集だ。彼女の好きな詩人。女性だった。その本を見せられたとき、女性でよかったと彼は思った。それを思い出したが、名前も詩集の題も思い出せない。だからおれはだめなんだ。でも、その詩人の言葉をひとつ思い出した。闇のなかに座る人は。彼は声に出して言った。夢に火をとぼす、だ。彼は夢を見た。彼女が知らない男と暮らしていた。小さな村だ。彼は二人に気づかれないように様子を窺っていたが、思い切って二人の前に出てなにか言おうとした。二人は彼に気づかない。彼の姿が見えないのだ。彼は見えない人間になっていたのだ。気がつくと彼は二人のいる村から出て森のなかにいた。いつのまにか、彼を囲む仲間ができていた。死者たち。ちがうよ。わたしたちは死ねない。近づいてくる足音をおそれながら、いつまでもこのへんをウロウロしているんだ。このへんって、どこですか。彼はやっと声が出た。汚染区域だよ。なんの汚染ですか。決まってるじゃないか。決まってるって、どういうことですか。そう言いかけたところで目がさめた。彼女が帰っていた。眠っている。音がした。一匹の小さな動物が本棚の自分の場所に戻っていく音だ。思い出した。彼女の好きな詩人の名前はネリだ。
 

2015.8.31