【第6回】ピアノの上で眠る女(文月悠光) | マイナビブックス

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POETRY FOR YOU 2

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【第6回】ピアノの上で眠る女(文月悠光)

2015.07.13 | 福間健二+文月悠光

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​ ピアノに身体を映し、パジャマのボタンを留めた。側面のカーブに沿って、私の胸は横に広がって見える。息を止めて背筋を伸ばしてみるが、大した変化はないようだ。演奏中も無意識に猫背になってしまい、先生から再三注意を受けていた。
 四年前から、グランドピアノの上で寝ている。地方から出てきた音大生には、ピアノをベッドにする人が少なくない。女子寮の小さな防音ルームにはピアノを置くのがやっとで、到底ベッドを置くスペースはないからだ。閉じたピアノの屋根に、薄いマットレスを投げ上げて、夏掛けを一枚広げる。これが私のベッド。毎晩、演奏用の椅子を踏み台に、ピアノの上に横たわる。
 震災前はピアノの下で寝ていた。転倒したピアノの下敷きになると聞き、その上に寝床を移したのだ。下には今誰も寝ていないはずだが、ときどき息遣いのようなものが突き上げてくる。いいよ、わたしのピアノで休んでも……。二段ベッドのような親密さで、私は見えない他人と付き合っている。
 寝食を共にしてみれば、ピアノは楽器というより、三つ脚で立つ異形の生物だ。その上に乗って、電球を替えたり、壁を拭いたりしたこともある。最初は黒光りする肌が恐ろしく、暴れ馬のように振るい落とされるのでは、とこわごわ足を載せたものだ。このことを知ったら、教授は卒倒するだろう。指導者のくせして演奏家然とした先生は神経が細い。どちらかといえば、私は荒々しい男が好き。最近はクラシックよりジャズを聴き、石田幹雄さんのライブに通っている。これは最も重要な秘密かもしれない。
 グランドピアノには、内側に大きくくぼんだ箇所がある。恋人と電話するとき、私はそのくぼみにぴったりとお腹をつける。私が笑ったり怒ったりすると、くぼみを通してピアノにもそれが響くのだ。そのせいか鍵盤を叩いていても、自分の肉や骨を動かしている心地がする。ピアノ線を打つハンマーが飛び跳ね、声を上げ、私と一緒に汗をかく。
 八月の演奏会を控えて、善福寺の葉月ホールハウスへ打ち合わせに向かった。会場に据え置かれたグランドピアノは、黒ではなく、木目の浮いた美しい茶色だ。天窓の光を受けて、空間全体を明るく染め上げていた。ペダルは少し重いが、素晴らしく良い音がした。この上で眠ったら、どんな心地だろうか……。
 帰宅して、真っ黒な自分のピアノを見たとき、少し狼狽した。なぜ多くのピアノは、気が滅入るような黒なのか。ハートの女王よ、急ぎのお願いだ。トランプ兵を呼び寄せて、国中のピアノを茶色に塗り替えてください。白いバラを真っ赤に塗ったように。
 寝つけない夜は、くぼみに手を伸ばし、ピアノの縁に触れる。目をつむったまま、やわらかなカーブを撫で上げていく。大きな耳たぶの上で寝ているようだ。もうすぐピアノの屋根が持ち上がり、私をまるごと飲んでしまう。そのとき、誰か弾いてくれないか。私をピアノに寝かせたまま、ジャズを一曲弾かないか。眠りたい、血の音に打たれて。

 

2015.7.13