【第4回】夜ばらの街(文月悠光) | マイナビブックス

詩、短歌、俳句の新しいカタチを探ります。紙から飛びだした「ことばのかたち」をお楽しみください

POETRY FOR YOU 2

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【第4回】夜ばらの街(文月悠光)

2015.06.29 | 福間健二+文月悠光

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 手の中から苺が消えた。ああ、また飛んできたな。大方〈住人〉のしわざに違いない。苺に付いていた雫が手のひらに残る。僕はそれを軽く握り締め、上着のポケットに手を突っ込んだ。その〈住人〉は女性だと僕は睨んでいた。苺を奪う手つきを見て(見えないけれど)そう思った。彼女が苺を飲み込んだ瞬間、苺は無色透明に変わる。見えない苺は、見えない小さな舌に、どんな味を与えるだろう。少しだけ辛いのかもしれない。
 いまはまだ生まれていない住人たち――。ラジオが電波をキャッチするように、僕は〈住人〉を引き寄せてしまう体質らしい。「引き寄せてしまう」なんてわざとらしいかな。おそらくそれを「拒めない」のだ。
 勘違いや妄想から生まれた世界は、どこかに必ず実在する。たとえば向田邦子のエッセイには、〈童は見たり、野中の薔薇〉を〈童は見たり、夜中の薔薇〉と歌う人の話が登場する。その人が〈夜中の薔薇〉と歌った百年後の夜、野ばらならぬ、夜ばらが花開く可能性はゼロではない。
 真夜中、少年はベッドを抜け出る。闇と目が合わぬように、うつむいて用を足す。寝室に戻るとき、彼はある気配を感じて居間の方を振り向く。食卓に生けられた薔薇の花と視線を交わす。今この瞬間に目覚めているのは、自分とこの薔薇だけに違いない。そんな奇妙な思い込みを抱き、彼は花に歩み寄っていく。
 こうして話す僕自身が、誰かの妄想の産物であったら? 或いはこの街そのものが、〈住人〉の夢であったら? その可能性を僕は何度も考えてきた。その可能性を考えることにより、日常を紙のように軽くしたかった。この街には色が無い。白と黒と灰色によって、すべてをまかなっている。原稿用紙とインクの色だ。
 僕は駆け出しの小説家で、花を生ける恋人はいない。24時間営業のスーパーで、品出しのアルバイトをしている。白黒の世界では、すべてが影に紛れてしまい、品々を判別するのも苦労する。似たような菓子や洗剤が多すぎるのだ。さっきの苺は、品出しのときにケースからこぼれた苺を、咄嗟にポケットに入れて持ち帰ったものだ。欲しいと思ったこともないくせに、失いかけた途端、それを掴み取ってしまう。ただあの苺は、他の苺にはない色を帯びていた。少し気味の悪い、でも目を留めずにはいられない色……。あれは何色と呼ぶのだろう。
 僕はこの街に色を与える物語を書きたい。色というものが何なのか、まだ掴めずにいるけれど。それが実現できた暁には、小さな教室を開こう。小説の書き方を教える講座だ。皆で筆を執り、それぞれの街を彩っていく。

 

2015.6.29