【第3回】百年後の苺(福間健二) | マイナビブックス

詩、短歌、俳句の新しいカタチを探ります。紙から飛びだした「ことばのかたち」をお楽しみください

POETRY FOR YOU 2

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【第3回】百年後の苺(福間健二)

2015.06.22 | 福間健二+文月悠光

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 ヤジマさん、でしたね。作家は彼女の質問に答えずにそう言った。わたし、自分がいなくなっている百年後とかの世界を思うとぞっとするんです。わたしがこうして生きていたことをだれも知らない。そんな世界の、いまはまだ生まれていない住人たちの姿が見えてきて、夜ときどき怖くなるんです。どうしたらいいんでしょうか。彼女はそう尋ねながら、その男性作家の答をなかば予想していた。あなた、なにか書いていますか。書いたらいいと思うな。いや、書かなくてもいいか。でもなにか作る。自分がいまここに生きている。それをかたちにする。それがあなたの死後まで残るなんてことはなくても、この世界になにか刻んでいることになる。どうかな。しかし、その予想は外れた。そんなことではなかった。彼が彼女から視線をそらして空を見つめるようにして実際に口にしたのは。ヤジマさん、死んでも生まれ変わってこの世界に現れることができるんですよ。ぼくはそれを信じています。百年後は何になっているか。次に作家が言ったことは彼女をさらに驚かせた。ぼくは、苺とかがいいですね。苺になってしっかり者の女の子に食べられたいですよ。ヤジマさんは、何がいいですか。そのとき、髪の薄い男が作家に近づいてきてなにか耳打ちした。作家は手に持っていた帽子をかぶり、笑みを浮かべて言った。じゃあ、宿題。百年後、何になっていたいか。苺ですか。植物で、人に食べられておしまいですか。髪の薄い男の怪訝そうな調子の声が、エレベーターに乗る二人のうしろ姿を見送る彼女のなかに残った。次回のその作家の講座は二週間後だ。国立市公民館三階の講座室から出たスペース。古びた長椅子があった。彼女はそこにしばらく座って窓の外のヴェランダを見ていた。半年前までは喫煙スペースがあり、灰皿がおいてあった。いまはない。彼女、矢島ユキは煙草がすいたくなった。ヤジマさん、煙草すいに行こう。彼女の倍以上の年齢の、受講者仲間の男性二人と女性一人が彼女を待っていた。公民館の裏の自転車置場で四人は煙草をすう。本当はそこも喫煙してはいけない場所だ。公民館の敷地内は全面禁止なのだ。きょうの先生の話、おもしろかったですか。作家はトマス・ハーディの『テス』の話をした。ハーディの言いたいことは表面の下に隠されているサブテクストにある。そう言ってましたね。ぼくはあの小説読んでこなかったからよくわからなかった。読んでいてもわかんないよ。わたし、ポランスキーの映画見ました。景色もナスターシャ・キンスキーのテスもとてもきれいでした。絵を描いているという女性が言った。彼女、吉田さんはハイライトをすう。黒を上手に着て、年齢不詳の雰囲気だ。昔の映画女優のだれかに似ているとユキは思う。土曜日の午後、五時十五分をすぎたところ。三人と別れたユキは、富士見通りを駅にむかって歩き、駅前のロータリーをこえて旭通りに入った。あっ、梶芽衣子だ。わかった。吉田さんは梶芽衣子に似ている。ユキはちょっとうれしくなった。アパートに戻るつもりだったのだが、気が変わった。音楽の流れている場所でビールでも飲もうと思った。ヤジマさんでしたね。作家は彼女の名前を言った。受講者各自の前に名前を書いた紙のプレートがおかれるのだが、それでも、よくおぼえていてくれたと思う。ユキは作家に自分から話しかけた。朝から質問することを考えていたような気がした。その興奮もまだ残っている。行きたいと思った店は六時開店だ。その店のある建物の一階の居酒屋はもうあいていた。その前を通りすぎ、時間をつぶすために歩きつづけた。百年後、何になっていたいか。ユキの夢に出てくる百年後の世界は、彼女が一時期働いていた多摩センターの街に似ていた。でも色がなかった。白と黒と灰色の、そのイメージのなかに赤い苺がひとつポツンと浮かんだ。それに誘われるようにユキはその街に飛んだ。苺を手に持った住人の前に立つ。若い男性だ。彼にはユキの姿が見えない。その苺を奪ってヘタごと食べた。彼は何が起こったのかわからず、目をギョロギョロさせてまわりを見まわした。透明人間のユキは次々にいたずらを思いついて彼を翻弄した。トンマで憎めないこの人はだれなのだろう。ビール、ハートランド。だれだったのだろう。最初の一杯を飲みほしながら、矢島ユキは考えはじめた。わたしは彼に会ったことがあるだろうか。彼の苺の味。たいして甘くも酸っぱくもなかった。
 

2015.6.22