【検索結果】"ナリタマサヒロ "の一覧
▼カテゴリから探す
- 文芸
- 小説 |
- エッセイ |
- 詩歌 |
- 戯曲・シナリオ
- 実用書
- ビジネス |
- 暮らし・子育て |
- 語学・教養 |
- コンピュータ |
- 将棋・囲碁 |
- 地図・ガイド
- スポーツ
- ゴルフ
- コミック
- 写真集・イラスト集
- 写真集 |
- 画集・イラスト集
- その他
-
浅草の公園六区に出て、透はまず、その人出の多さに圧倒された。
初秋の昼下がり、清らかに澄み渡った青空のもと、数え切れないほどの人々が興行街を闊歩している。学帽をかぶった青年に日傘を傾ける婦人連中、思い思いに小屋を冷やかしてまわる男たち、よそゆきをまとった子供の群れ、見回りに歩く白手袋の巡査。遠くには唐人帽子のような十二階の姿が見え、道の両脇にはとりどりのノボリや看板が所狭しと押し並び、まさに色彩の洪水と化していた。 -
五次にわたる「川中島の戦い」であるが、それぞれの結末は以下の通りである。
・第一回戦:善光寺平の南に位置する荒砥城を巡る小競り合いのみで両軍引き上げ(布施の戦い)
・第二回戦:二百日におよぶ長期対陣の末、今川義元による和睦斡旋で撤兵(犀川の戦い)
・第三回戦:上杉軍による旭山城の奪還以外は、大きな戦果はなく、膠着の末、撤退(上野原の戦い)
・第四回戦:「川中島合戦」の代名詞となった一番の激戦で、両軍とも痛み分け(八幡原の戦い)
・第五回戦:対陣六十日に及ぶも、小競り合いのみで両軍撤退。最後の「川中島」(塩崎の退陣) -
私が次に岡田の家を訪ねたのは、それから五日後のことだった。
その日、午後から所用のあった私は、時計が九時を回る頃には、もう電車に乗っていた。開け放たれた窓から流れこんでくる風も幾分涼やかな、八月も終り近くの、しのぎやすい日だったと記憶している。 -
このようにして、宿老の国人領主衆たちに担がれる形での力技で、先祖伝来の武田の家督と甲斐国の守護職を乗っ取ってしまった信玄であるが、そのことによって生じた甲斐国内の動揺をいかに乗り切るかという、目の前の課題も同時に抱えることとなった。
いつの世にも、自国内の混乱や動揺を鎮めるためには、国民の目を国外に向けさせ、領土の拡大を図る手法が取られるものだ。大半の戦争が、そうした目的で始められるのである。 -
優美な曲線を描く紅茶茶碗が、冷えきった両手をじんわりと暖める。初江は、茶碗から立ちのぼってくる甘い香りを、まずは胸いっぱいに吸いこんだ。朝食がわりにと出された特製のミルクティーは、砂糖と牛乳のたっぷり入ったものだった。
「冷めないうちにどうぞ」 -
岡田の家を出た十数分後、彼に聞いた道順をたどって行く私の顔に、ポツリと冷たいものが当たった。
降るかもしれぬと思っていたのが、的中したようだった。どうしたものかと思案するうち、雨粒は次第に大きく、早い調子で落ちてくるようになった。
「まずいな」 -
近代戦における戦略・戦術研究のプロまでも納得させた戦国時代の「インテリジェンス」であるが、実際のそうした活動は、どういう人物によって、行なわれたのであろうか?
そこで、頭に思い浮かぶのは、「軍師」という存在である。
そして、その「軍師」のイメージとして、最も連想し易いのは、古代中国史でいえば『三国志演義』の諸葛亮孔明であり、日本の戦国史では山本勘助であろう。 -
私と岡田は、一高時代からの友人だった。
彼の家は地方の富家で、古い武家の流れを汲むと言われる、由緒ある家柄である。息子二人を東京に出してやれるほどの余裕があるのだから、たいした長者だった。若いうちは外に出ろというのが父君の考えなのか、早く家を継げ、身をかためろなどと、岡田たちを急かすこともなく、割り合い好きにさせているようだった。 -
──助けて、だれか助けてえッ。
肌にまとわりつく暗闇のなか、初江は痛む足をかばいながら走っていた。
泥沼のなかを進むように、足が重い。
いったいここはどこなのか、いくら足を動かしても気ばかり焦るだけで、初江は少しも前に進めなかった。 -
──わたしたちのように、ほかの人にはない力と、鋭敏な感覚を授かって生まれた者は、気づいたものに対して無関心であってはいけないわ。だからと言って、望まれもしないのに深入りしてもいけないの。とても難しいけれど、慎重にそして懸命に、その時々を判断していきましょうね────。
-
チリン…………。
扉の右肩に下げてある、来客を告げる鈴が鳴ったのに気づいて、透はふっと顔をあげた。今のいままで、眠くてしかたなさそうだった目が、人の気配に輝きを取り戻す。そしてすぐに、かすかな苦笑を宿した。
「レイさん、またお店から入りましたね」 -
後世の歴史を知る我々からみると、この「川中島の戦い」という合戦は、武田や上杉といった、それぞれが独力で天下を狙える実力があった戦国大名が、十年以上にわたって足の引っ張り合いを行なっただけという、まさに時間のロスと見ることが出来る。
事実、後にこの地を訪れた豊臣秀吉は、「はかのいかぬ戦をしたものよ(無駄な戦さをしたものだ)」と、信玄と謙信をなじったと伝えられるが、たしかに「天下布武」へと突き進む織田信長の戦いに従事していた秀吉の感覚からみれば、そう映ったに違いない。 -
史実が伝える「川中島の戦い」とは、以下の五回の武田軍と上杉軍との激突を指す。
・第一回戦:天文二十二年(一五五三)八月
・第二回戦:弘治元年 (一五五五)七月
・第三回戦:弘治三年 (一五五七)八月
・第四回戦:永禄四年 (一五六一)九月
・第五回戦:永禄七年 (一五六四)八月 -
【第1回】第六章 勘助に学ぶ失敗の本質(不祥事に際しての身の処し方)
北信濃への信玄の進出の前に、長年にわたり立ちはだかっていた村上義清であるが、ついには、勘助の盟友・真田幸隆の謀略により、難攻不落を誇っていた戸石城を奪われてしまった。
以来、戸石城は信玄の北信濃攻略の前線基地となり、もはや、義清には戸石城を奪還する気力もなく、ついには天文二十二年(一五五三)に信玄に本拠地の葛尾城を攻められると、戦わずして、小県にある支城・塩田城に落ち延びた。 -
『甲陽軍鑑』の作者は、信玄の偉業を肯定するあまり、意図的に信虎を貶める表現を多用していることは明白である。
では、なぜ、信玄は実父を他国に追放しなければならなかったのだろうか?
その理由については、当時の武田家の統治体制や組織に注目することで、読み解くことが出来る。
8/9