【第2回】 | マイナビブックス

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 岡田の家を出た十数分後、彼に聞いた道順をたどって行く私の顔に、ポツリと冷たいものが当たった。
 降るかもしれぬと思っていたのが、的中したようだった。どうしたものかと思案するうち、雨粒は次第に大きく、早い調子で落ちてくるようになった。
「まずいな」
 あたりから、パタパタと雨戸を立てる音が聞こえてくる。私は雨宿りのできそうな軒先を探して、麻布十番町の大通りを、半町ばかり走った。砂利を鳴らすような雨音は、絶え間なくついてくる。ぴしゃりと戸を閉め切った呉服屋の向かいの角を曲がり、履物屋の狭い軒下にすべりこむと、ひと心地つく間もなく、空は大泣きに泣き出した。
 息苦しいほどの暑さがなだめられるのに従って、汗も次第にひいていく。だが瓦や地面を激しく叩く雨だれの音だけは、いつやむともなしに続いていた。私は腕を組んで、ささやかな店の並ぶ路地を眺めた。呉服屋のあった大通りからは少しはずれているが、この通りにも何枚かの看板が出ていた。暖簾の掛かった表口に盛り塩をしている店もあったが、ひと握りの白い山は、雨に打たれて半分に削れていた。
「やれやれ、しばらく足どめか」
 ぼんやりと雨を眺めていると、ふと、通りの奥にあった一枚の看板が目についた。
 赤銅仕立ての突き出し看板に、細い装飾文字で『夜想曲』とある。看板の上にある角灯といい、煉瓦の窓枠や扉の様子といい、そこだけ西欧の下町を思わせるような雰囲気を醸し出していた。
「『夜想曲』……岡田の言っていた店だ」
 私は預かりものが濡れぬように懐に納め、家々の軒先を伝いながら『夜想曲』という店の前に出た。
「やっているんだろうか」
 赤煉瓦が縁取りする硝子窓を覗いてみたが、ただの飾りなのか、なかは見えない。店の扉は重厚な樫の扉で、珍しい浅緑色の敷石がついていた。私は銅板に刻まれた『夜想曲』という言葉に魅かれるように、いつのまにか扉をあけていた。
「いらっしゃいませ」
 頭上でチリンと鈴が鳴るのと同時に、若々しい声が聞こえてきた。様子からして、岡田の言っていた少年とは、彼のことらしかった。
「外は大変な雨のようですね。お着物は濡れませんでしたか? なにか拭くものをお貸ししましょうか」
「いや、大したことはない」
 そう答えて、私の声の主を見た。
 それが私と彼──透との出会いだった。
 年の頃は十代のなかば、学校に通っているのなら、ちょうど中学の四年くらいだろうか。
 二重で切れ長の、そして少し物憂げな瞳は、歌舞伎の女形のようであったが、それ以上にどこかしら異国情緒を匂わせるものがある。身体つきは歳のわりに華奢だったが、その分、利発そうな顔をしていた。岡田と同じように本の好きそうな少年と言えばいいのか──だが単に読書家と言うのなら、彼のほうこそ、そういったおとなしめの雰囲気が似合いそうだった。
「どうぞ、お掛け下さい」
 すすめられるままにカウンターの一席を陣取り、私は着物についた雨粒を払い落としながら店内を見回した。
 『夜想曲』はものの何秒かで一見できてしまうほどの、ごく小さな店だった。座席は私の分を含めてもほんの七、八席で、まだ昼間だというのにやけに薄暗い。それもそのはずで、正面のカウンターを除いたほとんどの場所が、大きな本棚でふさがれていた。外から見えていたのは、本棚の背だったというわけである。この狭い店内をぐるりと取り囲んだ本棚には、上から下までびっしりと本が詰めこまれてあった。冊数で言うなら、岡田の部屋の倍はありそうだった。
「お客さま、なにをお出し致しましょうか」
 カウンターの上に並べられた燭台のあかりが、透の声に応えてゆらりとさわぐ。最初は本を返したらその足で帰るつもりだったが、雨降りということもあって、私はここで時間をつぶす気になっていた。
「あ……そうだな、なにがある?」
「こちらに、お品書きが」
 透はすました顔で、冷えた麦酒でもお出ししましょうかと言った。そういった物言いがなにやら無理に背伸びをしているようで、思わず頬がゆるんでしまう。
「願ったりなんだが、昼間から酒というわけにも……冷たいものだとありがたいんだが、そうすると、ソーダ水かオレンジエードか」
「では、水出しコーヒーはいかがでしょう。ちょうど一人分、落とし終わったところです」
「水でたてるのか、珍しいな。じゃあ、それをもらおう」
「かしこまりました」
 珈琲を待つあいだ、私は背後に迫る本棚をしげしげと眺めた。
 文庫に混じって懐かしい和綴じの草子本や、漢籍、洋書まで揃っている。背表紙を追っていくと、その大部分が神話や伝説、民間伝承などに類するものらしかった。
「よくこれだけの本を集めたものだな。だが、割り合いに偏った蒐集と見える」
「母が占い師だったせいか、勢い、こうした陣容になったようです」
「なるほど、占い師か」
 道理で、とうなずいてみせる。そんな稼業の人の蔵書だからこそ、怪異に富むものに関心を持っている岡田が目をつけたのだろう。そういえば、と岡田のことを思い出して、私は戸棚から珈琲茶碗を出している透に、岡田の使いで来たのだと告げ、懐の本をカウンターに並べた。
「遅くなって申しわけない、と言っていた」
「いいえ、いいんです。では、たしかに」
 幾分そっけなく言うと、透はカウンター右手の本棚に、その数冊を押しこんだ。
 気を悪くしたのかと思い、私は返すのが遅れた理由を手短に語った。最初はなんの表情もなく聞いていた透だったが、話が岡田の体調に及ぶと、少しだけ顔を強張らせた。
「それで、代理で返しに来たのだが」
「そうでしたか……」
 カチャリと静かな音を立てて、私の前に珈琲茶碗が置かれた。香りは多少弱まっているものの、ひとかけの氷が浮いた水出し珈琲は、見た目にも涼しげだった。
「お砂糖とクリイムは?」
「いや、いい」
 氷の冷たさをくちびるに感じながら、珈琲をひと口すする。その瞬間、この店が風通しの良くない割りに、ひんやりと涼しいことに気がついた。
「それでは、こちらをどうぞ」
 透は手品師よろしくこぶしを開くと、私の手に、ちびた鉛筆のようなフィンガー・チョコレートを落とした。子供から菓子を分けてもらったような気がして、苦笑がもれる。私は礼を言いながら銀紙を破き、菓子をかじりかじり、透と彼を取りまく本を交互に眺めた。

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