【第1回】 | マイナビブックス

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 私と岡田は、一高時代からの友人だった。
 彼の家は地方の富家で、古い武家の流れを汲むと言われる、由緒ある家柄である。息子二人を東京に出してやれるほどの余裕があるのだから、たいした長者だった。若いうちは外に出ろというのが父君の考えなのか、早く家を継げ、身をかためろなどと、岡田たちを急かすこともなく、割り合い好きにさせているようだった。
 岡田は、十四のときに当時陸軍士官学校に在学していた兄君を頼って上京し、以来麻布の盛岡町にある小奇麗な借家で、兄君と二人住まいをしていた。
 たしか彼の兄君は幼年学校からの叩きあげの一等中尉どので、自宅からほど近い、麻布兵営に詰めているのだと聞いたことがある。士官としての将来を嘱望されて陸軍大学校に進み、優秀な成績で卒業したいまは、さらにもう一年の在外研究を許されている身分なのだという。むさ苦しい男所帯に来るのは賄いの婆だけ、口うるさい親父がおらぬのは極楽よ、と岡田はよく笑っていた。
 その日、私は早めの昼をすませて、岡田の家に向かっていた。
 夏季休暇を利用して郷里に帰っていた岡田から、『土産を取りに来い』という葉書が届いたからだった。彼のよこす葉書は決まってこんな風で、紙面いっぱいに大雑把な筆致で、たったひとことしか書かなかった。
「しかし、土産というのは届けてくれるものじゃないのか」
 苦笑しながら、窓の外を見る。電車から見る麻布の景色も、久しぶりだった。
 霞町で降車した私は、歩きなれた道に沿って、岡田の家を目指した。
 盆はとうに過ぎていたが、晩夏の日差しは緩むことを知らない。正午過ぎのうだるような暑さのなか、人々は吹き出る汗を拭いつつ道を急いでいた。私も額の汗を払って、このあたりではちょっとした名物になっている、松の古木の枝振りが見える半襟屋の角を曲がった。そのまま、磨き抜かれた格子窓と朝顔の鉢が並ぶ路地を歩いて行くと、やがて岡田の宅に出る。
 見ると、賄いのおとよ婆さんは来ていないのか、うちはいやに静まり返っていた。とりあえずたたきに上がって岡田を呼んでみると、返事はいつもの調子に乗って、すぐにやってきた。
「斎木か、上がれよ」
「土産を取りに来てやったぞ」
「なんだよ、もらいに来た奴が偉そうに」
 どこかしらかすれ気味の岡田の声は、縁側に面した六畳間から聞こえてくるようだった。
 兄弟二人暮らしという気やすさも手伝って、幾度も寝泊まりした岡田の家は、正直、下宿先の書生部屋よりも居心地が良かった。遠慮なく上がらせてもらって六畳間へ入った私は、次の一瞬、言葉を失った。
「あァ、ちっと熱が出ちまってな」
 私の目の前には、薄い布団の上に横になり、うちわ片手に呻吟している岡田の姿があった。よっぽど暑くて寝返りばかり打っていたのだろう、彼の浴衣は、だいぶ着崩れていた。
「岡田……一体、どうしたんだ」
「なんつう声だよ。たいしたことねェって」
 起き上がろうとする岡田を諌めて、私は部屋の隅に蹴り出されていた布団を掛けてやった。岡田は暑苦しいからと嫌がったが、強いてそのままにさせた。
「養生を兼ねて里帰りしておきながら、病をしょって帰ってくる奴があるか」
「わかってらァ、誤算だったぜ」
 そう言ってニヤリと口元をゆがめる岡田に、私は身体の調子を尋ねてみた。
 頑健な身体に恵まれている兄君とちがって、岡田はときたま、寝こむことがあった。そのせいで、小学校を一年遅らせたのだと聞いている。高校時代にも長く休んだことがあったが、ここしばらく小康状態が続いていたせいもあって、このまま快癒するのだろうと思っていた矢先である。
 思えば大学に入ってからは、これが初めての、病気らしい病気だった。
「調子は、まあ、そんなでもねェよ。なんかこう、始終だるいみてェな感じはするがな」
「熱があるんじゃないのか? ちゃんと医者に診てもらっているんだろうな」
 岡田はふふんとせせら笑って、右手の小机に積み上げられていた本のなかから、群青色の一冊を抜き出した。
 生来伏せりがちだったためか、岡田は意外と読書家だった。ただし学科に必須の法律書のたぐいに限って頁を切ろうとしない悪い癖があって、もっぱら詩だの小説だのを読みふけっていたようだった。小机に積み上げられた本も、暇つぶしに読み漁っていたものだったのだろう。
「こっちでかかってる俺の医者なんか、ほら、例のヨボじじいだろ? 人の心配より、自分の心配しやがれって奴だからな、アテになんねェよ。せんだっても『夏風邪ですわい養生しなされ、おおかた遊びが過ぎて、どこぞの芸妓にでもうつされたんでしょう』だとよ」
「そうなのか?」
「馬鹿、そんな金あるかよ。あったって兄貴がうるせェや」
「そうだったな。兄君はお勤めか?」
「ああ、盆にも帰れなかったくらいだから、忙しいみたいだぜ。そうだ、これ、土産な」
 青い血管の浮き出た腕が、一冊の本を差し出す。
 題には、『郷土の伝承』とあった。
 おそらく、岡田のくにに伝わる伝説を莵集したものなのだろう。編者は、地元で割に名のある私塾をやっている識者だということだった。パラパラと頁を繰ると、収められている話のほとんどが、寺社の縁起譚や霊験譚、昔話の類いだった。細かい字の上に結構な厚さで、里の古老を一人一人訪ねては辛抱強く聞き集めた、編者の苦労が窺われた。
「なるほど、岡田の好きそうな本だな」
「で、おまえは嫌いなんだろ?」
「嫌いというわけじゃない。ただ、こういうものを信じていないだけだ。単なる読み物としてなら、十分に興味がある」
「信じるかどうかは……まあ、別にしてもよ、幽霊話みてェなのも結構あるんだぜ。まだ暑いし、いい涼みになるだろうよ」
 ありがたく受けとる私に、岡田はついでだから茶をいれてくれと言った。
「そこらに、番茶の冷ましたのがあんだろ? おっと、そのまま持ってくんなよ。俺はなんか冷てェのが飲みてェんだ、どっかで氷でも買ってきてくれ」
「なにが氷だ、このうえ腹まで壊す気か」
「ばか、このくそ暑いのに、ぬるい茶なんか飲めるか。病人じゃあるまいし」
「おまえはどこから見たって、立派な病人だ。ぬるいのが嫌ならいれ直してやるから、おとなしくしていろ」
 湯をわかしながら昼飯はすんだのかと問うと、岡田は気のない声で食欲がないと答えた。
「今日は兄貴もいねェしな、たまにはあの婆にも、休みをやろうか思ってよ」
「じゃあ、朝からなにも食べていないのか?」
 腕時計をかすめ見ると、針は二時を指していた。
「あー……まァな」
「なにをやっているんだ。病人なら病人らしく、しっかり食べて寝ていろ」
「いいんだよ。食いたくねェし」
 病がちと言えど、食い気と眠気だけは旺盛だった岡田の言葉とは思えなくて、私は盆に湯飲みを乗せたまま、彼の顔をまじまじと見つめた。けだるそうに起きあがって湯飲みを受け取ったその肩は、たしかに休み前よりも細くなっていた。さしこむ光の角度のせいか、頬も少しこけているように見えた。
「心配すんなよ、単なる暑気あたりさ」
「それならいいがな」
 私と岡田は、しばらく無言で茶をすすった。
 縁側の軒先に吊るされたビイドロの風鈴が、細く高く鳴り響いて涼を告げる。岡田はなにか言いたそうな様子だったが、ふと思いだしたように、山積みになっている本をあちこちひっくり返しはじめた。
「そうだ斎木、ちょっと頼まれてくれねェか」
「ああ、なんだ?」
「これとこれ……それからこっちの本と……この本、返してきてくれよ」
 本の山から探し出した数冊を押しつけて、岡田はそれが借りものなのだと言った。
「十番町のはずれに、ちょっと変わった喫茶店があんだよ。そこの透って坊主に借りたんだけどよ、返すのを忘れててさ……代わりに謝っといてくれ。それから、なんか面白そうなヤツがあったら借りてきてくれよ」
 そう言いながら、岡田はまだ読みたりなさそうに頁をめくった。瞬時にして本の世界へ入ってしまった岡田に、私は粥でも炊こうかと持ちかけた。あいかわらずの生返事だったが、作れば食べるだろうと決めつけて、台所へ入った。
 賄いつきの下宿に住んでいるせいで、炊事には縁のない私である。粥ひとつ炊くにも不安はあったが、やればやったでなんとかなるようだった。漬物の瓶を適当に漁って梅干しと茄子漬けを見つけ、それを小皿に盛りつけると、格好だけは立派になった。
「岡田、晩飯を用意しておいたからな」
「悪ィな」
「本当にそう思っているのなら、食べることだ。暑気あたりごときで参る食い気でもなかろう」
 岡田は降参の意を示すように手をあげて、土産にもらった本を手にする私に、もう帰るのかと残念そうに言った。
「ゆっくりさせてもらいたいんだが、おまえの使いと明日の準備もある」
「あァ、夜学の講師か」
「講師じゃない、ただの手伝いだ」
「似たようなモンだろ。本代稼ぎもいいけどな、適当にやっとけよ」
 私は苦笑しながら頼まれた本を抱え、見送りを断って立ちあがった。
「近いうちに、また来る」
「見舞いに酒でも持って来いよ」
「じゃあ、飲める身体にしておくんだな」
「おっ、言うじゃねェの」
 最後にもう一度、養生するように念を押してから、私は岡田の家を後にした。
 自分の影がやけに薄いことに気づいて天を仰ぐと、すっかり色あせた夏の青空を、重苦しい雨雲が覆い尽くそうとしていた。