【第1回】 | マイナビブックス

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 チリン…………。
 扉の右肩に下げてある、来客を告げる鈴が鳴ったのに気づいて、透はふっと顔をあげた。今のいままで、眠くてしかたなさそうだった目が、人の気配に輝きを取り戻す。そしてすぐに、かすかな苦笑を宿した。
「レイさん、またお店から入りましたね」
「もう、トールちゃんのおかたいこと」
 苦笑まじりの微笑みが、窓のふさがった、薄暗い『夜想曲』に光をともす。ともすれば闇に同化してしまいそうな透とちがって、怜はそこにいるだけで、周囲を明るくはなやかにしてしまう雰囲気を持っていた。飾り気のない簡素な薄墨色のワンピースでさえ、怜がまとうと、その美しさを上手に引き立てた。
「あーあ、おなかすいちゃった」
 怜は両手を頭上で組んで思いきり背伸びをすると、本棚とテーブルとに占められた狭い店内を軽やかに横切って、透の白い頬をつついた。
「ね、おなかすいちゃったわ、わたし」
「僕だってそうです」
 そっけない応えに、怜はすねる幼子をあやすような笑顔になる。金茶色に輝く美しい瞳に、素知らぬふりをしている透の顔が映った。
「最近、また、ご機嫌ななめなのね」
 怜はカウンターの椅子に腰かけ、もう一度、許しを請うように透を見つめた。透はだまされませんよ、と言うようにくるりと背を向け、しかしすぐに正面へ向きなおった。
 その手に、小さな古硝子のビンがある。透はなにも言わずに、ただ蓋だけをあけると、ビンごとついと怜に差しだした。中身は、色とりどりの金米糖である。虹のかけらを思わせるこの砂糖菓子は、怜の好物だった。甘えるように手を出した怜に、透は小さく息をついて、ひとつまみ落としてやった。
「機嫌が悪いわけではありません。ただ」
 絞った布巾を手にカウンターのなかから出てきて、透はふたつしかないテーブルをふきながら言った。
「どんなに遅くとも六時までには帰ってくると言ったのは、レイさんです」
「あらぁ、そんな約束……」
 したかしら、と言いかけて、金米糖をひと粒ほうりこんだ口もとをおおう。得意の気まぐれも透の前では通じないのか、怜は細い肩をすくめると、素直にあやまった。
「なにも僕は、一日中、ずっと家にいてくださいと言っているわけではないんです。でも、最近の帝都は、なにかと物騒ですから……」
「あら、そんなの大丈夫よ。いざとなったら、わたしだって」
「レイさん」
 めずらしく強い語調で言葉をさえぎられて、怜は口を閉じた。怒りをみせたのもつかのま、透は視線を落とし、手にしていた布巾をキュッと握りしめた。
「レイさんが僕よりもしっかりしているのは、わかっています。だけど、レイさんは……」
 透は、いつもの灰色のワンピース姿の怜を見つめた。怜がその視線の意味に気づくのに、時間はかからなかった。
「そうね……そうよね。トールちゃんの言う通り、過信は禁物だわ。ごめんなさい。弟にこんなに心配をかけるようじゃ、お姉さん失格ね」
 透の白い手に、それよりももっと優しげな白さを持った怜の手が重なる。怜は透の両手を自分の両手でそっと包みこみ、みずからの胸元へ引き寄せて、祈るように言った。
「ごめんね。今度から、気をつけるわ」
「いいえ……あやまらなくてはならないのは、僕のほうです」
「なにを言うの。トールちゃんは悪くないでしょう。いまだって、正しいことを言ってくれたわ」
 二人のまぶたが同時にひらき、切なさを閉じこめた視線が重なりあう。だが透はそれすらもかわして、また目を伏せた。
「心配しているだなんて、よく言えたものですよね。僕が、レイさんを縛っておきながら。僕のほうが、もっと迷惑をかけて、もっと心配をさせておきながら」
「ちがうわ、トールちゃん、それはちがう。いい、トールちゃんがすべてのことに責任を感じる必要なんて、どこにもないのよ」
 怜は透の肩を抱いて、自分のとなりに座らせた。そして、かつて二人の母親がそうしていたように、ゆっくりとさとすように言い聞かせた。
「ねえ、もしもつらいことや哀しいことで、頭のなかがいっぱいになりそうになったら、わたしに言ってね。わたしとトールちゃんと、二人で分けましょう。だってわたしたちは、この世でたった二人きりの、姉弟なんだから」 
 怜がそっと透の頭を抱くと、透はなにも応えず、そのまま怜の肩にこめかみを預けた。 柱時計の規則正しい音だけが、狭い店内に響く。怜は目を伏せ、ちょうど一年前の今頃を、頭に思い浮かべた。
 空白の一年間。
 去年の透は、まさに生ける人形だったと、怜は思いかえした。父母を亡くした心の痛みに耐えかねてか、透は涙をなくし笑顔を忘れ、言葉すらも心の奥に封じこんで、この春までの十何ヵ月間、ただのひとことも口をきかなかったのである。
 起きているのか寝ているのかもわからぬような顔つきで、ただぼんやりと外を眺めて過ごす毎日──そのあいだ、怜は持ちうる限りの愛情で、辛抱強く弟を癒し続けた。
 そして一年の喪が明ける頃、透は長い午睡からゆるゆると目覚めるように、少しずつ心をひらきはじめた。だがようやく言葉を取り戻した透のくちびるは、ただ「僕のせいだ」をくり返すだけだった。なぐさめてもなお、死ぬことしか考えようとしない透を、時にはともに涙し、叱り励ますことで、怜は必死になってこの世につなぎとめた。
 その努力が実を結んだのだろう、花がほころび、風が暖かさを増して行くにつれて、透は少しずつではあるが生きる力を取り戻しはじめたのだった。
「わたしね、父さまの生まれ育ったこの国を、もっとよく見ておこうと思うの」
 怜は透を包みこむように見つめ、自分の言葉をそっと投げかけた。透はわずかに視線をあげて、それを受けた。
「トールちゃんが望むなら、独逸だって米国だって、どこにでもついて行くわ。でもそれまでは、この国で少しでも多くものを見たり、多くの人と知りあったりしたいと思うの。いけないかしら?」
「いいえ……でも……」
「大丈夫。ちゃんとわかっているわ」
 怜はこくりとうなずいて、
「わたしたちは、他人とのかかわりに対して、慎重でなければなりません」
 と、伯林でも屈指の占い師であった、母の教えを口にした。