【第2回】 | マイナビブックス

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──わたしたちのように、ほかの人にはない力と、鋭敏な感覚を授かって生まれた者は、気づいたものに対して無関心であってはいけないわ。だからと言って、望まれもしないのに深入りしてもいけないの。とても難しいけれど、慎重にそして懸命に、その時々を判断していきましょうね────。
 
「母さまが言いたかったことは、他人と距離をおきなさいってことじゃないわ。いいえ、その逆よ。トールちゃんは昔から、人とつきあうのを避けているようなふしがあるけれど…………」
 その言葉に、応える声はない。
 透が眠気覚ましに飲んでいた珈琲の残りが、カウンターの上の、乳白色の茶碗のなかでかすかに揺れている。透は椅子から立ち、それをながしに捨ててしまうと、再びカウンターの内側へ戻って、あと片づけをはじめた。怜も椅子からすべりおりて、透の横で珈琲茶碗やコップやらを戸棚にしまう。
 今日も、客は少なかったらしい。
 怜は透に聞こえないほどかすかに息をつくと、窮屈さを覚えるくらいの狭い店内をながめまわした。一応のところ二年後にと定めた渡独までの手すさびに、喫茶店の開業を提案したのは、怜だった。できることなら透の勉強を再開させてやりたかったのだが、当の透は学校や塾の話をすると、途端に口を重くしてしまうのが常であった。
 そこで怜は苦肉の策として、喫茶店の開業を持ち出したのである。
 学校をやめれば、透はさらに家に閉じこもるようになるだろう。怜はそれをおそれて、人とふれあう機会に恵まれそうな仕事をすすめたのだった。大戦中はずっと日本にいたため、尋常小学校から私立の中学校に進んだ透だったが、結局は友人らしき友人も作らぬままに、今年の春、中退を決めたのだった。 
 人とのふれあいが、透の心を癒す。
 常々そう考えていた怜は、透にせめて歳の近い友人がいればと、今夜二度目のため息をついた。
「ねぇ、トールちゃん」
 銀製のティー・セットを磨きおえた透は、それをながしの下にしまいながら、視線で応じた。
「たまにはお店をしめて、外に遊びに行ってみたら? いい気分転換になるわよ」
「べつに、行きたいところなんてありません」
「上野の帝室博物館は? 日比谷公園や浅草なんかはどう? そうそう、トールちゃんは本の虫なんだから、神田にでも……」
「人混みは嫌いです」
「だめよ、そんなんじゃ」
 怜は困ったように眉根をよせ、食事の支度をしようと野菜を選んでいる透の腕をとった。
「トールちゃんも、もっと外に出なくちゃいけないわ。さ、出かけましょう!」
 どこかはしゃいだ風に言いながら、透の腕に自分の腕をまわして店の扉へ向かう。強くひっぱられたはずみで、透の手から馬鈴薯が落ちた。透は指先についた泥を拭うのも忘れ、慌てて怜の腕を取った。
「そんな、レイさん、もう八時半ですよ?」
「今夜は……そうね、なかや庵の鳥南蛮そばの気分かしら。あのお店なら、この時間でもまだやっているはずよ」
 たまには怜さんの手料理が食べたいのに、と口をとがらせながらも、透は誘いをこばみはしなかった。しかたなさそうに返事をして、手早く身仕度を整える。くすくすと笑いながらそれを待ち、透が火の元を確認したところで、怜は扉の把手に手をかけた。それとほぼ同時に、ガタッという重い音が扉の向こうに響いた。一瞬、動きをとめてサッと振りかえり──怜は透と視線をあわせた。
「外からでしたね」
 怜をかばうように前に出て、透は扉の鍵穴に耳をあて、次いでそっと扉をひらいた。チリンという鈴の響きに、かぼそいきしみ音が重なる。それに続けて、ひとりの娘が透の腕に倒れこんだ。
「もし、どうされました? お具合でも?」
 淡い桜色をした、モスリンのドレス。衣装は悪くないが、ぺらぺらと薄くてやたらに派手なぶん、安っぽい感じは否めない。
 透は次第に脱力していく娘を抱き起こし、顔にかかっている髪をかきやって、幾度も声をかけた。額には冷汗が浮かび、血の通わない頬は痛々しいほどに青白い。化粧のせいか少し大人びて見えるが、まだ少女と言っていいような風情だった。
「トールちゃん、早くなかへ! わたしのお部屋がいいわ」
 怜が扉を開けて叫ぶと、透はこくりとうなずいて、少女をかかえあげた。