【第3回】 | マイナビブックス

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──助けて、だれか助けてえッ。
 肌にまとわりつく暗闇のなか、初江は痛む足をかばいながら走っていた。
 泥沼のなかを進むように、足が重い。
 いったいここはどこなのか、いくら足を動かしても気ばかり焦るだけで、初江は少しも前に進めなかった。それなのに心臓は早鐘のように鳴り続け、息苦しさに、喉がキリキリと絞られるようだった。
──お願い、だれか……!
 初江は、正体不明の不気味な男に追われていた。どんなに逃げようとも、その不気味な男は、ぴたりとあとを追ってくる。闇に足を取られ、幾度もつまづきそうになるうち、犬のような荒い息づかいが、初江のすぐ耳元に迫った。
──きゃあああッ!
 ビクリと身体をふるわせた初江が、背後をかすめ見るや、怪人の手が彼女の髪をわしづかみにした。冷たい地面にひきずり倒され、初江の顔が恐怖と苦痛にゆがんだ。
──美しい。
 変にうわずった気色悪い声が、耳朶から這いあがって脳裏に響く。それは初江の知っている男の声に、ぞっとするほど良く似ていた。
──美しい足だ。
 男の手が初江の足をとらえ、硝子細工に触れるかのように、慎重に指をすべらせる。初江の肌という肌を、鳥肌が覆いつくした。
──こんな足を探していたのだ。
 からからに乾いた喉から、悲鳴がほとばしる。初江は死にもの狂いでもがいたが、男の手は初江の足を離さそうとはしなかった。
──おまえの足、その靴ごともらっていくぞ。
 初江のくちびるが、やめて、と動く。
 だが男はなんのためらいもなく、手にした大振りの刃物を振りあげた。
 それはきつく押さえこんだ、初江の左足首に向かって────。
 
 
「イヤアアアアアアアッ!」
「大丈夫よ! ね、もう大丈夫」
「ア……アア……」
 まだ半分悲鳴のような声を出す初江の頭を幾度もなでてやって、怜は懸命に声をかけた。
「こわい人は、あちらへ行ってしまったわ。そうよ、うんと遠くに追い払ってやったの。だからもう、安心していいのよ」
 しばらくするうちに混乱はおさまり、初江は心地好い暖かさと、それに続いてやってきた、かすかな声を感じ取れるようになった。
「ほら、ね、ここなら大丈夫でしょう」
 初江は優しげな声の主を見定めようと、恐怖にふるえるまぶたを、そっとあけてみた。するとほのかなあかりのなかに、ふたつの人影が見えてきた。初江は重い泥のなかに沈んでいるかのような五感を急いで引きあげ、目の焦点をあわせた。ぼやけていた輪郭が濃度を増し、自分を見つめているふたつの顔が、次第に明確になる。やがてはっきりとわかるようになったその顔は、どこかしら日本人離れした少年と、異国の女性らしきひとのものだった。
「どこか痛いところはありませんか?」
 さっきとはまた別の、おだやかな声が、枕もとに立つ少年から発せられる。初江はうなずくかわりに、まばたきをしてみせた。
「ここ……ど、こ……?」
「無理に話そうとしちゃだめよ」
 怜の口から紡ぎ出されたのが日本語だったので、初江は幾分、安心したような顔になる。だがすぐにかたい表情に戻って、足のほうに視線を向けた。
「あたし……の……靴……」
 透と怜は、靴という言葉に敏感に反応した。ベッドに横たわる初江は、なぜか靴をはいたままであった。寝かせる前に脱がせようとしたのだが、彼女の靴──舞踏用の赤い絹の靴──は、まるで足にくっついているかのように、どうしても取れなかったのである。透が口ごもっていると、初江は足先にせまる靴の感触に気づいて、眉をひそめた。
「この靴、生きてる……」
「靴が生きている?」
 ふさわしい言葉を探して視線をさまよわせていた初江の顔が、突然、苦痛にゆがんだ。 声を押し殺し、身体を丸めて、きつく目を閉じる。
 透が手をさしのべると、初江の指先がすがりつくように透の手にからまり、爪が食いこむほど強く握りかえした。初江の苦しみようを見かねた怜が布団をめくるや、透はあいている手で初江の右足を押さえた。
「待っててね、すぐに脱がせてあげるから。いい、トールちゃん、一、二の三で行くわよ」
赤い絹のかもしだす光沢は、ランプのほのあかりに映えて、血のしたたりを連想させる。怜は呼吸を整え、初江の足首にからまっている靴紐を注意深くほどいて、靴のかかとに手をかけた。しかし力を入れようとしたその瞬間、初江が激しく首を振った。
「いたっ、痛い! やめて、痛いよッ!」
「でも、このままじゃ……」
 無理にでも靴を引きはがそうとする二人に、初江は狂ったようにあらがう。やがてその苦痛と疲労が限界に達したのか、初江の意識は、再び深い闇のなかへ沈んでいった。
「困ったわね……どうしたものかしら」
 怜は鏡台の引き出しから銀の指輪を取り出して右手にはめると、ひとさし指を初江の額にあてた。
『シゲルよ、生あるものを生あらしめる力よ』
 まじないを唱える怜の指先に、熱がこもる。指先に力の高まりを感じながら、怜は初江の額に指文字を書いた。
『汝、我が力となり、かの少女の苦痛をとく去らしめたまえ』
 やがて初江の眉間に刻まれていた深いみぞが消え去り、その寝顔は少女らしい柔和なものに戻った。怜はまじないの成功を感謝する言葉をつぶやくと、母親が子供にするように、優しくその髪をなでてやった。
「『赤い靴』というわけね」
「レイさん、その例えは」
 そうね、とうなずいて、怜はおぞましいものから身を守るように自分の肩を抱いた。
「たしか『赤い靴』の女の子って……」
「自分の足を切ってしまうんです」
 嫌な予感をうち消すように、怜はふるふると首を振る。
「とにかく今夜はそっとしておいて……明日、詳しい話を聞いてみましょう」
 怜の意見に賛成の意を示して、透はランプの灯を静かに落とした。