【記事】歴史一覧
▼カテゴリから探す
- 文芸
- 小説 |
- エッセイ |
- 詩歌 |
- 戯曲・シナリオ
- 実用書
- ビジネス |
- 暮らし・子育て |
- 語学・教養 |
- コンピュータ |
- 将棋・囲碁 |
- 地図・ガイド
- スポーツ
- ゴルフ
- コミック
- 写真集・イラスト集
- 写真集 |
- 画集・イラスト集
- その他
-
ところが、昭和四四年(一九六九年)に、NHKの大河ドラマで「天と地と」が放映されると、北海道釧路市在住の視聴者から、自宅に伝わる古文書の鑑定依頼が寄せられた。
この視聴者の先祖は、武田家の家臣であり、後に米沢藩士となり、さらに明治時代には、屯田兵として北海道へ移住した由緒があったことから、この古文書は『市川文書』として新たな論争を呼ぶきっかけとなった。 -
この「川中島の戦い」に関する基本的なパターンを見れば、北信濃の支配を主張する武田の領土に、越後から上杉勢が侵攻するのを受けて、武田軍が甲斐より急行するという展開がメインである。
謙信にしてみれば、先に触れたとおり、高梨氏などの同盟関係にある北信濃の国人衆より泣き付かれ、彼らの旧領を回復するという大義名分を掲げて、堂々と武田領内に侵攻しているのである。 -
二条斉敬(なりゆき)
関白、賢明、かつ、善良な人物ではあるが、あまり幕府の勧告を入れすぎるきらいがあった。
岩倉具視
1868年1月3日(慶応3年12?月9日)、京都の小御所(こごしょ)で行われた国政会議では参与。ハリー卿と共に、京都でミカドに謁見する前の同年3月?22日、岩倉侯を訪問する。厳しい顔つきの、老けて見える人物で、言葉に腹蔵はなかった。 -
信濃攻略を開始した信玄にとって、最大の悩みは、築城技術者の不足であった。
しかし、その悩みも山本勘助という、不世出の逸材を採用することによって、克服することが出来た。
先の家老衆を集めての会議が、天文十二年の正月三日であったのに対して、勘助が駿河より招かれたのは、三月のことである。この時点では、知行百貫の口約束であった。 -
では、ここで山本勘助という「軍師」の人物像について、詳しく検証してみよう。
山本勘助といえば、二〇〇七年のNHK大河ドラマ『風林火山』で主人公として、脚光を浴びたことは、私たちの記憶に新しい。
特に、〝越後の龍〟こと上杉謙信と、〝甲斐の虎〟こと武田信玄が、互いに雌雄を決しようとした「第四次・川中島の戦い」において、自らが招いた戦略ミスの責任を取る形で、戦場の露と消えた悲劇的な末路とあいまって、その生き様は、多くの小説やドラマ、映画などで繰り返し描かれている。 -
徳川斉昭(水戸の前藩主/なりあき)
攘夷派の筆頭。水戸家の家憲は、将軍を支持し、将軍を幇助することであり、天皇(ミカド)こそ、最高の統治を行う正当な権利者であることを、肝に銘じていた人物。また、当時のオランダ、シナとの制限付き交際以上に、外国との交際を拡大することには、強力に反対してきた。しかし、オランダ学者を密かに領内に招き、ヨーロッパの諸科学に傾倒し、古書の絵図を頼りに、フリゲート艦の建造も試みた。 -
「陣取り」という言葉のニュアンスにも含まれるとおり、「○○取り」という言葉には、広く、グランドデザインを設計する行為が含まれている。
武田信玄にとって、新たに領土拡大を行なうには、敵の領内の城を落とし、その城を武田の城として、新領土を支配する要として、整備する必要があった。
それゆえ、武田の宿老の1人であり、信虎追放の首謀者でもあった板垣信方が、駿河の国よりスカウトしたのが、山本勘助だったのである。 -
さて、この「軍師」であるが、実のところ、その存在自体がフィクションに近いと見做されている厳しい現実がそこにある。
なぜなら、「軍師」とは、天下泰平の世となった江戸時代以降に、武士階級の教養として、広く嗜まれた軍事研究、すなわち「軍学」における一種の武士の理想像だったからである。
この「軍学」とは、戦場における戦術・戦略などの戦闘法を指す「兵法」や、難攻不落の城を築くテクニックである「築城術」などを体系化し、研究された「軍事学」である。 -
【第7回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(6)
サトウが着任した1862年頃、100ドルは条約上311分、為替相場は214分であった。そこで、悪徳外国官吏は、毎月?40%近い利ざやを獲得することができた。横浜で購入した日本語辞書が4分(1分銀4枚)、すなわち、2ドル払った。後で、本屋に行き値段を確認すると、1分半だった。自分の給仕は悪党だと怒ったとある。
-
五次にわたる「川中島の戦い」であるが、それぞれの結末は以下の通りである。
・第一回戦:善光寺平の南に位置する荒砥城を巡る小競り合いのみで両軍引き上げ(布施の戦い)
・第二回戦:二百日におよぶ長期対陣の末、今川義元による和睦斡旋で撤兵(犀川の戦い)
・第三回戦:上杉軍による旭山城の奪還以外は、大きな戦果はなく、膠着の末、撤退(上野原の戦い)
・第四回戦:「川中島合戦」の代名詞となった一番の激戦で、両軍とも痛み分け(八幡原の戦い)
・第五回戦:対陣六十日に及ぶも、小競り合いのみで両軍撤退。最後の「川中島」(塩崎の退陣) -
【第6回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(5)
日本人は大の旅行好きで、本屋の店頭には宿屋、街道、道のり、渡船場、寺院、産物、そのほか、旅行者が必要な事柄を細かく書いた、旅行案内の印刷物が沢山置いてあった。相当良い地図も容易に手に入り、精密な縮尺で描かれたものではないが、それでも実際に役立つだけの、地理上のあらゆる細目にわたって書いてある。
-
このようにして、宿老の国人領主衆たちに担がれる形での力技で、先祖伝来の武田の家督と甲斐国の守護職を乗っ取ってしまった信玄であるが、そのことによって生じた甲斐国内の動揺をいかに乗り切るかという、目の前の課題も同時に抱えることとなった。
いつの世にも、自国内の混乱や動揺を鎮めるためには、国民の目を国外に向けさせ、領土の拡大を図る手法が取られるものだ。大半の戦争が、そうした目的で始められるのである。 -
【第5回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(4)
1863年6月24?日、英国公使代理のニール大佐が幕府側に返答した、この〝強固な基礎と、合理的にして肯定することの手段〟とは、第2章①でも触れたが、英国側から将軍に、物質的な援助の計画を暗示するものであった。もし仮に、この種の援助政策が実行されれば、将軍家の先祖伝来の地位は安定し、そして、1868年の革命(明治維新)は困難を極め、よりおびただしい流血なしには成就しなかっただろうと述べている。
-
近代戦における戦略・戦術研究のプロまでも納得させた戦国時代の「インテリジェンス」であるが、実際のそうした活動は、どういう人物によって、行なわれたのであろうか?
そこで、頭に思い浮かぶのは、「軍師」という存在である。
そして、その「軍師」のイメージとして、最も連想し易いのは、古代中国史でいえば『三国志演義』の諸葛亮孔明であり、日本の戦国史では山本勘助であろう。 -
【第4回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(3)
サトウは横浜の外国居住民あてに発刊していたジャパン・タイムズの主幹、チャールズ・リッカービーとの縁で、日本国内の旅行記、社会情勢などの記事を連載していた。その中で、幕府と締結した通商条約の恩恵は、幕府の直轄地の住民だけで、この国の大部分の人々と、外国人との間を断ち切るものである。
4/5