【第10回】記憶の染み(文月悠光) | マイナビブックス

詩、短歌、俳句の新しいカタチを探ります。紙から飛びだした「ことばのかたち」をお楽しみください

POETRY FOR YOU 2

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【第10回】記憶の染み(文月悠光)

2015.08.10 | 福間健二+文月悠光

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「嘘はなかった」。話し声がする。わたしは傍らに誰かの熱を感じながら、ゆっくりと目を開けた。電車のシートでうたた寝をしていたようだ。一列に腰掛けている横顔を見やる。彼らが他人であることを理解するのに少し時間がかかった。個別の身体、個別の意識を持つ者。一人一人は生身の身体だった。腕が二本、足が二本、指が二十本。けれど足は靴に包まれているし、腕組みをしているから、本当のところは数えられない。
 左隣に座った男を見て驚く。Kだ。「Kさん」と声を掛けようとすると、その顔はSのようにも見えてきた。S? と思えば、今度はMだ。わたしがまばたきするたびに、男の顔は移り変わる。よく知った顔もあれば、忘れていた顔もあった。二度と見たくない顔もある。恐ろしいことに、皆、過去に好いた男である。
 六番目の男は、唐突にわたしの耳を舐めた。ざらりとした舌の感触と、生臭い湿り気が耳を這った。うっ、と不快感で声を上げた。
 その瞬間、布団の上にいた。耳元で低く、男性タレントの笑い声が響く。iPhoneから流れるラジオ番組の音声を、手探りで切った。汗をかいた背中に、Tシャツの裾が張り付いている。湿った枕に触れて、夢の謎が氷解した。額から伝い落ちた汗が耳を伝い、舐められたように錯覚したのだ。
 油を熱したフライパンに卵を割り入れる。あれは愛ではなく、ただの徒労だった。そのように言い聞かせる。卵の白身は、思いの外大きくフライパンの上に広がった。黄色い染みと、白い染み。記憶は染みだ。様々な形や大きさをとり、脳裏にこぼれている。記憶の染みは重なり合い、わたしの中にとどまった。ただし、染みは固まることがない。ごく小さな染みが、時間をかけて大きく身を広げたり、その色を鮮明にしていくことがある。卵はひとつではない。あちこちで似た卵が割れている。
「嘘はなかった」と言った彼を、わたしは今もどこか許せずにいる。嘘だと言ってくれたら、いくらでも責められたのに。いつでも誰かを愛したあとで、別の誰かに恋焦がれてしまう。みんな同じ星の上で起きていて、ちょっとずつ現実なのだ。今、息を止めてみたら、わたしはそんな現実をどのくらい離れることができるだろう。
 一人一人は生身の身体だった。腕が二本、足が二本、指が二十本。けれど足は靴に包まれているし、腕組みをしているから、本当のところは数えられない。真夏の夜に、耳を舐めにくる妖怪がいる。溢れ出す卵の黄身を見つめる。もう元には戻らない。戻らなくていい。綿のシャツに、あたらしい醤油色の染みを作る。
 

2015.8.10