【第1回】おはよう、マリアさん(福間健二) | マイナビブックス

詩、短歌、俳句の新しいカタチを探ります。紙から飛びだした「ことばのかたち」をお楽しみください

POETRY FOR YOU 2

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【第1回】おはよう、マリアさん(福間健二)

2015.06.08 | 福間健二+文月悠光

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 ぼくもまわり道をした。世界悲しみ選手権。何度もいいところまで行ったが、今回は予選落ちだ。わかった。わかりました。何人もの彼女にふられたとか、大事なところでヘマばかりしたとか、得意のタップも無視されたとか、いい仕事口が見つからないとかは、たいした悲しみじゃないんですね。世界は悲しみにあふれている。ぼくは窓をあける。あくびしながら、黒い電線の上に広がる空を見る。青空。そんなに青くなくても青空なのだ。きみの世界。出かける支度をはじめた魂が言う。いや、きみの世界だ。そう言い返す。二十六歳のぼくから抜けだして子どもになっている。川べりで遊ぶのが好きな子ども。川崎の事件のようなこと、おこらなくてよかったね。悲しみ選手権、予選落ちでよかったね。きみも、少しはものがわかってきてよかったね。まだまだ子どもだけど。おたがいさま。そうじゃない、これから本気の子どもになるんだよ。ゆうべの残り物。魚のフライとポテトサラダを食べた。そしてマーガリンを塗ったトーストとミルクたっぷりのネスカフェ。全部おいしくて、ひとつの魂がここから消える。毎朝きみの知らない故郷の言葉をまじえて小言を言うお母さんのこと、きらいでも大事にするんだよ。お母さんを毎晩殴る影のシステムとたたかうには作戦がいる。どこかで恋をして、恋の歌をうたって、永久に生きればいい。テーブルにあった好きな歌集のオビの文句を変奏してそう思った。国立市東一丁目。長生館という名前のアパート。ここに引っ越してきてからまだ一週間。五月の末にしては暑すぎる好天がつづき、六月になったきょうもそうだ。おはようございます。毎朝顔を合わせてきた前の家のおばあさんが、自転車で出ていくぼくのために立ちどまってくれた。髪をチョンマゲのように結っている。かわいいおばあさんだ。きょうはわたしの誕生日なのよ。八十五。八十六だったかもしれない。昭和五年生まれ。だったら、八十五でいいんですよ。でも、六十代に見えますね、山里さん。何もやらないよ。いや、誕生日ならあげるのはこっちだけど、ごめん。何もないや。苗字は彼女の家の表札で見ていた。下の名前を尋ねた。マリアよ。ほんとはユリコだけど。『ウエスト・サイド物語』を見てからマリアにしたの。きみの名は。ぼくはヤノ、ユキオ。矢野幸夫だ。トニーにされてしまうかと心配したけど、すぐに次の質問。きみの仕事は。どう答えよう。困っていると、彼女の視線は濃いピンクの花をぎっしりと咲かせているツツジの植え込みに落ちていた。きれい。きれいですね。今年はとくにきれい。行ってらっしゃい。誕生日おめでとう、マリアさん!

 

2015.6.8