【第16回】思い出 | マイナビブックス

詩、短歌、俳句の新しいカタチを探ります。紙から飛びだした「ことばのかたち」をお楽しみください

冬はつとめて

冬はつとめて

【第16回】思い出

2015.05.23 | 花山周子

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 
思い出がつきることはないアパートの壁に罅が入ったのは生まれる一年前の東日本大震災のときで、生まれてから一年三カ月後のソファーによじのぼって、この壁に黄色いクレヨンでぐるぐる線を描く。母が雑巾で拭くと、漆喰の壁に、黄色い線が広がる。夏の夜の母が団扇で仰ぐ風が顔にあたり、仰向けのまま舌を出して笑う。生まれてから五ヶ月後の六畳間に敷かれた二枚のふとんの上を転がり続けながら、敷居を越えて隣の四畳半へ転がり出ると、台所に母がいる。真昼真のステンレスの浴槽は深く、浅く張ったお湯に座り込んでは顔を出すのを風呂場の前で母が見ている。生まれてから三年三カ月後の朝のトイレにちりばめてしまった尿をドアをしめたままトイレットペーパーで拭いている。いつまでもいつまでも母の腕の中でミルクを飲む夜は遠く、生まれてから二年後のCDラジカセにCDをはめて、踊り続ける夜が遠い。生まれてから一年九カ月後の母がゴミを捨てに出た玄関に歩いて行って、つま先立ちしてガチャリと鍵をまわす。母が叫ぶ。あけて!あけて!わかる?まわすの!まわすの!母と激しくドアを叩き合う。おかあちゃん!おかあちゃん!おかあちゃん!郵便受けの中に突っ込んだ手を母がバタバタ鳴らして、コートちょうだい!こっからコートちょうだい!と叫び、椅子の背にかかった母のスプリングコートをつかみとり、郵便受けに突っ込む。母の指がコートをたぐり、ずるりとコートが引きずり込まれた。ガチャンとドアが鳴り、母が現れる。夕暮れの赤いぼんぼりを眺めている。四階の窓から見下ろす、川も桜もぼんぼりも、呑み込むようにいつまでも母としゃぼん玉を吹いている。私が生まれる二年前の秋、真っ赤な桜の葉を雨が川に叩きつけているのを、母が見下ろしている。

 

2015.5.23