【第12回】なんでもないこと | マイナビブックス

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【第12回】なんでもないこと

2014.12.05 | 川口晴美

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いや、ちがう
お風呂場に鏡はなかったから手探りで
意固地な子どもは少しずつ子どもの体を脱ぎ捨てていったのだ
シャワーは一応あったけれど
使うときはカーテンドアを開けて台所へ「シャワー出して」と声をかける
するとたいていはそこにいる母親が
洗い場の湯沸し器の蛇口にホースをつないでくれて
お風呂場のシャワーヘッドまでお湯が届く
わたしが台所にいるときに声をかけらたらわたしがそれをする
シャワーを使っている間は洗い場ではお湯が使えない
それが普通だったからなんとも思わなかった
不便だと気づかなかったことだってたくさんある
電子レンジはなかったし
洗面所もないから顔を洗うのも歯を磨くのも食器を洗うのと同じ場所
湯沸し器の
ツマミを押しまわすとかちりと鳴って青い火が見え
しばらくそのまま押し続けていればボッと点火する手応えがある
あたたかいものが生まれて
流れてゆくあいずの

 
お風呂場に蜂が入ってきたことがあった
高校生だった夏休みの昼間に
外から帰ってきて汗だくになったからシャワーを浴びようと
自分でホースをつないでからカーテンドアを開けたら
大きな蜂が飛んできてわたしはたぶん短く叫んだ
下着姿のままバスタオルを振りまわして部屋まで駆け戻り
蜂、なんとかして、とそこにいた弟に思わず言う
弟は少し笑って宿題のノートを座卓に置き
お風呂場へ行ってくれた
6歳下のひ弱な赤ん坊だったはずなのに
今は少年野球チームのピッチャーになっていて
年下なのだから守ってあげなくちゃいけない弟は
頼ることもできる男の子なのだと初めて知って
不思議な気持ちになる
蜂、出てったよ、と弟が戻ってくる
なんでもないことのように
その目元は父親に似ているのだった

2014.12.5