ビタースイートホーム
台所の床を
昼と夜の2回ずつ母親は毎日水拭きする
大きくなってからはわたしもやった
膝をついて床板の区切りごとに雑巾を持ち替えながらこうして
拭いていた床には今
薄く光る埃のように記憶が降り積もっている
身を起こすとガス台と流しのある右側の窓からは
トイレで見たよりも広々と隣の家の庭が見え
洗いものをする母親の額が外の光を受けてつやつやと輝いていた
あのひとは今のわたしよりずっと若かったのだと思うと
おそろしいような心持ちになる
夏の夜には
台所の窓にヤモリがあらわれる
窓ガラスの垂直面に外側からはりついたヤモリの
白っぽい腹や手足の先のまるみを内側から眺めながら流し台で食器を洗う
母親はきもちわるいと嫌ったけれど
わたしはかわいいと思った
毎年同じヤモリのように見えたがあれはどれくらい生きるのだろう
台所も窓ガラスも失われたから
夏のヤモリはわたしのなかの家の台所にだけあらわれ
半透明に歪んだ窓に似たやわらかな垂直にひたりとはりつく
そこはわたしの外側なのか内側なのか
わたしはヤモリが鳴くのを聞いたことがない
今、微かに聞こえてくるのは
冷蔵庫の電気音
細長い台所の突き当たりの壁際が冷蔵庫の定位置だった
なのに冷蔵庫がうまく思い出せない
ふたつの扉それぞれに銀色の取っ手がついていたのは
ひとり暮らしをするときわたしが最初に買った冷蔵庫だっただろうか
いいえ、東京で6畳のアパートの部屋に運び込まれたのは
冷凍室のない小さいタイプだったはず
わたしは小浜の市営住宅の台所の突き当たりで
記憶の隅で
鈍い銀色をした記憶の取っ手をつかんであいまいな冷蔵庫を開ける
つめたいにおいがする
あ、プリンだ
冷蔵室ではなく冷凍室に、母親のつくったプリンがある