詩、短歌、俳句の新しいカタチを探ります。紙から飛びだした「ことばのかたち」をお楽しみください

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【第9回】緑色のコップ

2014.11.14 | 川口晴美

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記憶の家のトイレでおしっこはできない
大人になってからは夢のなかでおしっこしようとすると目が覚めるから
おしっこをするというのは現実の現在でしか不可能な
現実の現在を確かめる行為なのだろうか
かわりに
トイレの左隅に置かれた
平たい長方形をしたお菓子の空き缶のなかの
トイレットペーパーでもティッシュでもない、ちり紙を数枚つかんで
くしゃっと丸めてから清潔に磨かれた和式便器の
くみとり式の穴へと落としておく
 
トイレの電気を消し忘れると
父親もわたしも平等に母親に怒られるのだったと思い出し
夜じゃないから点けていなかった電気の
スイッチを指先で探って押してまたパチンと戻した
玄関の摩り硝子戸の向こう側はまだあかるく
背中を押されるみたいにして
台所へ入っていく
短いレースのカーテンが頬に触れる
細長い台所の左側には「みずや」と母親が呼ぶ古い食器棚
わたしは「水屋」と「食器棚」が同じ意味だって何歳頃に気付いたんだっけ
手前に4人分のご飯茶碗が重ねて伏せられている
ガラス扉の端の浅く窪んだところに人差し指の腹を沿わせ
静かに横に滑らせて開けた
ちりっと鳴る
割らずに長く使ったご飯茶碗の
子どもっぽい絵模様が少し掠れていているのに触れる
それから、奥に並んだ何種類ものコップ
緑色の円筒形で短い脚付きのコップがお気に入りだった
好きだったのに
大事すぎてほとんど使わなかった
いつか特別よいことがあったらこの透き通った緑のコップに
ソーダ水を入れてバニラアイスクリームをのせて
ひとりで味わうのだと思い決めながら
食器棚に仕舞われているのをいつも見ていただけだった
特別なことなんか起こらない
残念だったね、でも
だから、ことばのわたしはいま緑色のコップで記憶を味わおうとしている

2014.11.14

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