塔は崩れ去った
周知の通り、リュミエール兄弟とエジソンの発明に始まるとされる近代映画史の黎明期には、映画はサーカスの曲芸などと同じように、見世物の一形態として扱われていた。この時期の映画は、数少ない監督たちの作品を残し、その他の多くは今日では失われてしまっている。そうした失われた映画作家のひとりに、フラウ・ドクトル・ファウストというドイツの見世物師がいた。
今日では、彼女については生前の記録が公的には何一つ残っていないため、長いこと、フラウ・ドクトル・ファウストなる映画監督も、また、したがって、その映画も、この世界に存在したことなどないと信じられてきた。フラウ・ドクトル・ファウストという名にしても、もちろん偽名であろうが、本名は今日となっては不明であるから、戸籍の記録さえ確認することが出来ない。だが、彼女がフラウ・ドクトル・ファウストを名乗った理由は想像に難くない。というのも、当時、見世物師はしばしば「博士」を自称するものであったのだし、彼女はゲーテのファウストがそうなったのと同様、全盲だったのである。
彼女の映画のベルリンでの初公開は、全盲の視覚障害者が撮影した映画という触れ込みに半信半疑で集まった観客たちを不意打ちにした。そこで上映された映像集は「ちゃんと撮れていた」のである。
小人に手を牽かれながら壇上に上がった老女が実際に全盲であるということは、観客の誰の目にも明らかだった。かつて、レニ・リーフェンシュタールがごく幼い頃にフラウ・ドクトル・ファウストと彼女の映画を見たことを回想しながら「そのとき、彼女の目は何も見ていないようだった。実際、彼女には何も見えていなかったのです」と語ったことがある、とする噂が流れたこともあったようだ。とはいえ、その噂の出所となった人物はどうやらリーフェンシュタールよりもずっと早くに亡くなってしまい、リーフェンシュタールの生前に誰かがその噂の真偽について改めて確認することもなかったらしい。
ともかく、フラウ・ドクトル・ファウストがその映画を撮ったとは誰にも信じられなかったということに疑いはないようだ。そして、観客たちは、実際には彼女の手を引いていた小人こそが実際のカメラマンなのだろうと推察しながら、「私はこれらの映像を心の目で見ながら撮ったのです」と自らの超能力を主張する彼女の弁舌を、それ自体ひとつのフィクションとして楽しんだのである。今日では考えられないことだが、当時はまだ、障害を抱えた人々を見世物として享受することが当たり前に行なわれていた時代だった。フラウ・ドクトル・ファウストのショーは、そうした見世物と映画とを一つに融合したものとして享受されたし、おそらくはそうした意図の下に、演出されてさえいたのだ。
しかし、観客たちの認識は誤りであり、実際には、ある人によって指摘されているように「彼らはその映像にもっと驚き、そして彼女を讃えるべきだった」。フラウ・ドクトル・ファウストは、実際に、カメラを彼女自身の手で操って映像を撮っていたのである。
フィルムは全て消失してしまっているものの、彼女が何を撮ったのかは、断片的にではあるが伝えられている。それによれば、彼女の映画の被写体は談笑する人々、暴れ馬、特急列車の通過、トランペット奏者の練習などさまざまであるが、それらに共通している点が一つある。すべてが、大きな音を出すものであるということだ。
つまるところ、彼女は音に向かってカメラを向けたのである。フラウ・ドクトル・ファウストは、音によって、被写体までの距離さえ正確に把握できた。そして、それによって、最終的には誰の補助も受けずに被写体にピントを合わせることができるようになったのである。当時はもちろんサイレント映画の時代である。したがって、観客たちは彼女がカメラを向けたその音を聞くことはなかった。観客たちの誤解も、それが原因だったのではないかと考えられている。だが、ことによると、彼女にとっては、それで充分だったのかもしれない。音は彼女自身にも聞くことができ、記憶することができた。しかし、彼女の目に注いだはずの光は、撮って上映することなしには、記憶されえないものだった。それは誰かに伝えなければ、まったく存在したことのないことになってしまう記憶だった。だから、彼女はただそれだけを観客に見せたのだ。
現在、彼女のフィルムが完全に失われてしまったことも、もしかすると偶然ではないのかもしれない。フラウ・ドクトル・ファウストは、おそらく、彼女のありえたはずの視覚の記憶を、ただ自らが生きているあいだだけ他人にゆだねるために、映画を撮ったのである。
また別の鯨かがやく海上に
鼻は視界に耳は死角にある寒さ
冬の蠅ざくりざくりと土掘る音
2014.11.11