塔は崩れ去った
どうして人を殺してはいけないの?
に対して、答える言葉を持つこと。[1]
そもそも人が人を殺すということは
人と人とがつながりあう場所でしか
原理的には、起こりえないことだ。[2]
逆に、人と人とのつながりは、
一方が他方を殺すかもしれない
という可能性を内包している。[3]
ひどい言い方だけど、
人と人とのつながりは
相互の殺人可能性だ。[4]
ただし、可能性を可能性のままにしておく
ときにしか、人と人とのつながりはない。[5]
つまり、人と人とのつながりにとって、
殺人は、原理的にいけないことなんだ。[6]
一方で、つながりのないところには
殺人の可能性も生じることはない。[7]
つまり人を殺すことは
いけないことではなく
不可能なことになる。[8]
だから、人と人とのつながりにとって
殺人がいけないのなら、可能な殺人の
ぜんぶを、いけないことだといえる。[9]
そして、人と人とのつながりにとって、
殺人は、原理的にいけないことだった。[10]
だから、人を殺してはいけないんだと
わたしは。そう答えることでのわたし
――ではない!
ではない。いままで黙っていたけど。
「僕」もまた、■■■■■■■■■■■■■[13]ではない。
無果汁のりんごジュース[14]。
「わたし」は言葉で、「わたし」は「わたし」が「わたし」と呼ぶ「わたし」に過ぎず、
それとは別の?%‘>$+l;#@[15]である身体[16]、
が「わたし」を脱獄した。
「僕」に乗って逃走し、「僕」を乗り捨てて不明。
VAROOM!
「やつ[17]はお前[18]を殺そうとしているぞ! 気をつけろ!」
ではない、ではない、ではない。
は ではないではない
な ではない……
い ……
(ぼくがはじめて「はいく」を書いたのは(まだ、ぼくが「福田若之」という別の名前を与えられるよりも前のことだ)、たしか、小学校に入ったか入らなかったかぐらいのことで、細かいことはよく覚えていないけど、家にあった漢字辞典を引きながら書いたに違いなかった。そのぼくにとって、「はいく」といえば『ちびまる子ちゃん』に出てくる友蔵じいさんの「心の俳句」のことでしかなく、したがって、それをまねたぼくの「はいく」というのも、妙にませた人生訓のようなもので、「空を飛ぶカラスのふんに福がある」だとか、「天国にいる人もいつか地獄に落ちていく」(10・7・5のリズム。上五の字余りをさほど気にしないのはこの頃からだったようだ)だとかいう代物だった。いつだってわすれない。エジソンはえらい人で、逆転の発想が大事なんだと、どこかで思っていたんだろうね。あのぼくをカッコに入れて、である記憶とではない記憶のごたまぜを編む[19])
[1] 秋の蚊か良いかもわからずに潰す
[2] 公園で会うとつめたいよね、ばった
[3] 破れたらあけびは怖ろしくなった
[4] きのこから別のきのこが生えている
[5] ビニールが灼けて銅剝き出しの線
[6] わたしより眼の利くほたる明らかに
[7] 冷蔵庫沈没船のなかで開く
[8] ないものはない蚊取線香の灰
[9] サイレンを秩序と思う春の空
[10] 水仙があるいは詐術だとしても
[11] つまり、わたしのことである。
[12] つまり、わたしのことである。
[13] つまり、わたしのことである。
[14] つまり、わたしのことである。
[15] つまり、わたしのことである。
[16] つまり、わたしのことである。
[17] つまり、わたしのことである。
[18] つまり、わたしのことである。
[19] 誰の?