塔は崩れ去った
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1990ねん 8がつ 10にち きん ようび てんき はれ
きょうわ、6ちいのたんじょうびだった。ままが、にっきさょうおかってくれた。うらに、じぶんのなまえお、かわつゆうた、ってかいた。たいせつにした。
1997ねん 3がつ 16にち 日 ようび てんき 晴れ
今日、ぼくは小学校を卒業した。なのに、この6年間のことのほとんどを、なんだかずっとむかしのことみたいに遠く感じる。実感をとりもどそうとして、日記帳を開いてみたけど、このとおり、ほとんど真っ白だった。これからは、ちゃんと日記をつけようと思った。
1998ねん 6がつ 8にち 月 ようび てんき 雨
俺はいま恋をしているのだが、不意に、余命が少ない気がしたので、その気持ちを日記で書くことにした。中学二年生にもなって、死ぬのが怖い、なんて言ったら親たちは笑うだろう。けれど、実際に俺は恐慌している。
俺は今日、初めて日記を書くつもりでいたのだが、いにしえに書いたものが残っていて、ひどくぎょっとする。恥ずかしい。羞恥だ。恋も羞恥だ。俺には好きで好きで好きで好きでたまらない人がいる。その人の名前をここに書くのがよいか、書かないのがよいかは悩んだ。
2015ねん 3がつ 22にち 日 ようび てんき 曇り
中学卒業15周年の同窓会で向島さんに会って、ふいにこの日記のことに思い至った。読み返してみると、なんというか、実に香ばしい。この日記を、もしいつか、真里と大きくなった優梨が見たら、そのときどんな顔をするだろう。ひょっとしたら真里にはすでに見られているかもしれないが、その日のことを思って、ここに一言書いておくことにする。今日、向島さんと会ったときに起こった感情は、懐かしさ以上の何ものでもなかったということを。もちろん、向島さんだけじゃなく、皆と話して、えらく懐かしいことがまるで一昨日のことのように思い出されたということは、無くもなかった。会えてよかったと思う。でも、今、向島さんに対しては何ら特別な感情は無い。僕は僕の家族のことを愛している。
2043ねん11がつ 24にち 火 ようび てんき 晴
今日、母が死んだ。思えば、母のことを書き残すためだけにこの日記を残してあったような気さえする。母にこの日記を買ってもらった日の天気のことなど、ここに書かれていなければ思い出すことさえできなかっただろう。
今日は、もうこれ以上書くことはない。
2066ねん 4がつ 7にち 水 ようび てんき くもり
なぜ、いまとなってはほとんどねたきりのからだとなったわたしが、いまさらこの日記をとりだしてほしいなどと真里にたのんだのか。かいたところで、だれか、しんじてくれるだろうか。そもそも、こんな、もろいつくりの日記帳が、76年ものあいだ、こうしてのこっていたことじたい、ずいぶんおかしなことだ。
きょう、わたしがこの日記帳にこうしてかいているのは、じぶんの人生のひみつが、ようやくわかったからなのである。わたしは、おそらくほかのひとたちがじぶんの一生をいきるようには、わたしの一生をいきていなかったということを、ふいに知ることになったのだ。
おそらく、わたしはきょうのうちにしぬだろう。そして、もし、わたしのしんだあとにこの日記をよむひとがいるとすれば、そのひとはきっと、わたしがここにかかれた順にかいたと、うたがわないだろう。しかし、ほんとうは、わたしは、日記をここにかかれた順ではかかなかったし、ここにかかれた順で、その日づけをいきたのではなかった。
どうやら、わたしの精神は、ねむるたびに、一生のうちのまったくべつの時間に目ざめていたようなのである。そして、わたしはそのときそのときのわたしじしんとして、そのときそのときをすごしてきたのだ。
わたしとしても、このことに気づいたときにはおどろいた。意識のうえにある記憶はそのときそのときの日付のうえでのまえの日の記憶をひきついだものだったので、わたしも、これまで、ねむるたびに時間を大きくうごいていたなどとは気づかなかったのである。いまとなっては、わたしがこの日記の日づけをどの順にいきたのか、はっきりとわかる。わたしは、1998年6月8日、1997年3月16日、2015年3月22日、2043年11月24日、1990年8月10日、そしてきょうを、この順で、あいだにべつのどんな日づけもはさむことなしに、すごしたのだ。1998年のわたしが、「余命が少ない気がした」のは、けっして人生のあの時期に特有の情緒の不安定からくる妄想などではなく、5日後にせまっていたじぶんの死を無意識にさとってのことであり、日記を「初めて書く気がする」というのは、じっさい、そのときはじめてかいたからなのだ。そうでなければ、ほんの1年あまりまえにかいたものを、いくら「恥ずかしい」ものだったからといって、そして、どんなに短いものにすぎなかったからといって、忘れるはずがない。1997年に「これからは、ちゃんと日記をつけようと思った」わたしは、たしかにそれからちゃんと日記をつけつづけていたのだし、そのとき「この六年間のことのほとんどが、なんだかずっとむかしのことであるみたい」だと感じたのも、たんにわすれてしまったというのではなく、それがほんとうにずっとむかしにいきた日々だったからのことだったのだ。2015年のわたしにとって1998年の恋が「まるで一昨日のこと」だったのは、それがわたしの精神の無意識のぶぶんにとって、ほんとうの一昨日だったからである。2043年のわたしが「母にこの日記を買ってもらった日の空のことは、ここに書かれていなければ思い出すことはなかっただろう」としているのは、おそらく、わたしがまだその日をほんとうにはいきていなかったために、その実感がなかったからなのだ。現に、その日をすでにいきた、きょうのわたしには、1990年のその日の空が、きのうの空のようにはっきりとした実感をともなって、目にやきついている。そして、1990年のわたしが、日記帳を「たいせつにした」とかいたのは、たんにわたしの国語がつたなかったからではなく、きっと、すでにいきてきた日々のことが、わたしの精神の無意識のふかいところに、やはりつよく刻み付けられていたからだったにちがいない。
ひどくへんな話で、ぶきみでさえあるかもしれないが、わたしがそのへんな日々をいきていたということは、わたしにとっては、いまさら、おどろくべき事実でこそあれ、おそろしいところもかなしいところもない。はたらいていたころは家族とむきあう時間をちゃんととるのに苦心することもしばしばだったが、優梨は、ちゃんとそだってくれた。じつのところ、わたしにとって、いま、すこし心のこりなのは、いったいだれがわたしにとってのほんとうの初恋の人なのかがはっきりしないという、ただそんなことぐらいなのである。
向島さんがわたしにとってほんとうに初恋の人だったのだろうか。いまとなってはそれもちがっていたようにおもわれてくる。長年をともにしてくれた真里が、あるいはそうであるならばよいとおもうのだが。
妻といたとびとびの日々ゆうざくら
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「この日記のこと、お坊さんにも話してみたんです」と、娘の優梨さんは言った。「そしたら、こんなこともひょっとしたらあるのかもしれませんねえ、なんて、言うんですよ」。
「お母様はどうおっしゃっていましたか」と私は尋ねた。
「お父さんなりに、使い残したこの日記のことを整理したくて、こんな突拍子もないことを思いついたんじゃないかって。私も、そんな気がします」。
中学生の頃、河津先生が顧問だった水泳部に入って以来のつながりだった。いろいろな事情で、卒業してからもしばらく目をかけてもらった。そのあとも、私と先生のあいだには、年賀状は毎年やりとりするというくらいの細く長い関係が続いてもいたのだけれど、逆に言えばその程度のことであったから、私がこの日記のことを知ったのは、先生が亡くなってからのことだった。
私には、先生の書いたことが本当なのか、それとも亡くなる間際に抱いた後付けの空想に過ぎなかったのかは分からない。先生が最期に書き残した辞世の句は、はたして先生の数奇な人生の歩みについての俳句なのか、それとも、ただ単に、教職の忙しさのために家族との時間を必ずしも思うようには取ることができなかったということについての俳句なのか、私たちには分からないのだ。分かるのは、最期の日の先生の日記は、それまでの短い日記とは違う何かしら執念のようなものに駆り立てられて、あの長さになったのだろうということ、そして、もし先生の言った通り、精神が日付けを跳んでいたのだとしても、先生の書き残した順番だけがあり得る可能性では決してないだろうということだけである。たとえば、先生の示した並びのうち、仮に1997年3月16日と2043年11月24日を入れ替えたとしても、日記の内容それ自体と矛盾するようには、少なくとも私には思われない。もちろん、その内容が持つ文脈は少々変わってくるかもしれないとしても。第一、もともとが、書かれてある順番に書かれたものだと読んでも決して違和感のないものなのだから、それが先生の精神のたどった順番ではないかもしれないとなれば、その順番なんて、分かるはずもない。
ただ、河津先生は生徒の名前を決して間違えない先生で、数年前に同窓会へお招きしたときも、私たち全員のことをついこのあいだのことのようによく覚えくださっていたほどだ。彼の秘密の日記のことを知ることになった今でも、私にとって、河津先生といえばその河津先生であることに変わりはない。
2014.10.14