【第5回】浮遊する王国 | マイナビブックス

詩、短歌、俳句の新しいカタチを探ります。紙から飛びだした「ことばのかたち」をお楽しみください

ビタースイートホーム

ビタースイートホーム

【第5回】浮遊する王国

2014.10.17 | 川口晴美

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 
電話はかかってこない
声にならないヒミツが受話器からこぼれる
記憶はどこにもつながることなく浮遊する王国のよう
電話台にメモ用紙が置いてあったかどうか思い出せずにわたしは
螺旋のコードをたどってしゃがみこむ
タイル柄の敷物がひんやりする夕暮れの玄関廊下に膝をつき
安っぽい電話台のオレンジ色した扉を開けようと
コートのボタンに似た金色のつまみを引っ張れば磁石が離れる感触
棚のなかには「小浜市」の電話帳がある
横には懐中電灯が立ててあって
少し厚い「福井県嶺南」の電話帳もたぶん並んでいた
しゃがんだまま膝に置いてあてもなく捲ると
薄い紙のにおいが漂う
揺れる水の底に沈んだ小石みたいな
0 ばかりを見つめてしまう
 
それから4畳半への襖を開ける
畳の縁を越える幻の足が
わずかに撓んでうけとめられる
母親は夏と冬とでカーペットを替えていた
今頃はきっとまだ夏物で
コタツもまだ出していないから
部屋の真ん中にあるのは長方形の座卓
そこでごはんを食べ
子どもの頃は宿題のノートも広げた
夜には脚を折って壁際に片付けてから布団を敷くのだ
暗闇のなかで手探りするみたいにして
記憶の部屋を探っていく
手前が食器棚でテレビの横には整理箪笥
箪笥の1段目にはタオル類が入れられていて
2段目は弟、3段目がわたしの場所だったはずだから
引き出してみよう
両手で持ってちょうど腰の高さ
ほら、畳んだハンカチと下着とパジャマが入っている
ごめんねそれを着る身体はもうない
ここにあるのはことばだけ
おかえり、と
わたしのなかの家がやわらかく軋んだ

2010.10.17