【第2回】夕暮れの水 | マイナビブックス

詩、短歌、俳句の新しいカタチを探ります。紙から飛びだした「ことばのかたち」をお楽しみください

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【第2回】夕暮れの水

2014.09.26 | 川口晴美

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くせっ毛をもつれさせたまま
市営住宅の入口に立っていた6歳のわたしは
田圃と畑と道の向こう
そこからは見えない海に夕日が落ちて
薔薇色に光る空が背後の山のほうから蒼暗く変わっていくのを
ぼんやり眺めながらとつぜん
今日というこの時間は決して繰り返さないってわかって
ものすごく不思議だった
あのとき6歳の身体は薔薇色の光を浴びていて
それからゆっくり蒼暗くなっていったのだ
同じ光を浴びることはない
決して
 
ことばのわたしはゼリーみたいに
いくつもの光を地層のように内部に溜めたまま
ところどころ溶けあったり滲ませたり
ゆらゆら揺らして零しながら
記憶の家へと遡る
市営住宅の入口からまっすぐ奥へ
海に背を向けやわらかな山の暗がりへ向かうかたち
夕方だから帰らなきゃね
木造平屋の家々の並びからは夜の支度のために水を流す音
浅い排水溝は日曜の朝ごとに大人たちが掃除するきまりだった
つきあたりの家の前のやや広くなったところに
古いポンプ式の井戸が長く残っていたけれど
いつ撤去されたかは覚えていない
溝の蓋を踏んで横道に入り
いちばん山側の細い道を左に曲がって3軒目
流れるように滞ることなく近づき
見えてくる
零れて
あかるんでゆく
玄関の色褪せた郵便受けといつのまにか使わなくなった牛乳箱
摩り硝子入りの引き戸は微かに軋んだ音をたて
開くからわたしは
ただいま、と言えばいいのか
少しだけ迷った

2014.9.26