【第1回】遡行 | マイナビブックス

詩、短歌、俳句の新しいカタチを探ります。紙から飛びだした「ことばのかたち」をお楽しみください

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【第1回】遡行

2014.09.19 | 川口晴美

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夏の終わりにタクシーで通りかかったとき
18歳まで暮らしていた家がどこに建っていたのか
わからなかった
車窓の向こう
確かあのあたり、と
だれにともなく曖昧な指を
低い山の際へ動かしてみたけれど
田畑をめぐってゆるやかにカーブする細い道が
市営住宅の並ぶ入口につながっていく記憶を
掠めただけで過ぎてしまう
ここでちょっと降りるからとめてくださいとは言えない
約束の時間があるし
そこに市営住宅は1軒も残っていないのを知っている
わたしは大人になっていて
住んでいるのはここじゃなくて東京
隔てられて
今は田畑のほとんどが住宅地
道筋も変わり
覚えのある空間と重ねられないまま
車はスピードを上げながら広い道を土手へと進み
新しい橋が見えてくる
遠ざかっていく
とめることはできない
進んでいくことを
時間を
 
ことばだけ
とめてみようか
ことばのわたしはタクシーをとめて
記憶に降り立つ
夏の終わらない地平
同じかたちの古い小さな木造平屋が
建ち並ぶ入口にわたしはいる
そこから
もうこの世のどこにもない家へ
我儘な子どもの幽霊みたいな足取りになって
歩きはじめる


2014.9.19