【検索結果】"山崎震一 "の一覧
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西郷吉之助
1865年?11月、兵庫港で、薩摩の汽船に乗っていた薩摩左仲と名乗る、炯炯とした黒い目玉の、片腕に刀傷がある、逞しい大男が寝台の上に横になっていた。西郷吉之助との初めての出会いである。1867年1月12?日鹿児島、宇和島訪問後、兵庫に投錨した際、西郷吉之助と再会する。2年前の薩摩左仲の名前を披露すると、大笑いした。 -
二条斉敬(なりゆき)
関白、賢明、かつ、善良な人物ではあるが、あまり幕府の勧告を入れすぎるきらいがあった。
岩倉具視
1868年1月3日(慶応3年12?月9日)、京都の小御所(こごしょ)で行われた国政会議では参与。ハリー卿と共に、京都でミカドに謁見する前の同年3月?22日、岩倉侯を訪問する。厳しい顔つきの、老けて見える人物で、言葉に腹蔵はなかった。 -
徳川斉昭(水戸の前藩主/なりあき)
攘夷派の筆頭。水戸家の家憲は、将軍を支持し、将軍を幇助することであり、天皇(ミカド)こそ、最高の統治を行う正当な権利者であることを、肝に銘じていた人物。また、当時のオランダ、シナとの制限付き交際以上に、外国との交際を拡大することには、強力に反対してきた。しかし、オランダ学者を密かに領内に招き、ヨーロッパの諸科学に傾倒し、古書の絵図を頼りに、フリゲート艦の建造も試みた。 -
【第7回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(6)
サトウが着任した1862年頃、100ドルは条約上311分、為替相場は214分であった。そこで、悪徳外国官吏は、毎月?40%近い利ざやを獲得することができた。横浜で購入した日本語辞書が4分(1分銀4枚)、すなわち、2ドル払った。後で、本屋に行き値段を確認すると、1分半だった。自分の給仕は悪党だと怒ったとある。
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【第6回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(5)
日本人は大の旅行好きで、本屋の店頭には宿屋、街道、道のり、渡船場、寺院、産物、そのほか、旅行者が必要な事柄を細かく書いた、旅行案内の印刷物が沢山置いてあった。相当良い地図も容易に手に入り、精密な縮尺で描かれたものではないが、それでも実際に役立つだけの、地理上のあらゆる細目にわたって書いてある。
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【第5回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(4)
1863年6月24?日、英国公使代理のニール大佐が幕府側に返答した、この〝強固な基礎と、合理的にして肯定することの手段〟とは、第2章①でも触れたが、英国側から将軍に、物質的な援助の計画を暗示するものであった。もし仮に、この種の援助政策が実行されれば、将軍家の先祖伝来の地位は安定し、そして、1868年の革命(明治維新)は困難を極め、よりおびただしい流血なしには成就しなかっただろうと述べている。
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【第4回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(3)
サトウは横浜の外国居住民あてに発刊していたジャパン・タイムズの主幹、チャールズ・リッカービーとの縁で、日本国内の旅行記、社会情勢などの記事を連載していた。その中で、幕府と締結した通商条約の恩恵は、幕府の直轄地の住民だけで、この国の大部分の人々と、外国人との間を断ち切るものである。
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【第3回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(2)
1864年9月8日、長州藩が和議を請うために、伊藤俊介の案内で、使節代表宍戸刑馬(高杉晋作)ら3名が来艦(ユーリアラス号)する。艦上に来た時、高杉晋作はLucifer(魔王、坂田は悪魔と訳している)のような高慢な態度をとっていたが、徐々に態度を変え、すべての提案をなんら反対することなく承諾した。
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【第2回】英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析(1)
回顧録によると、主権者たる将軍と、2、3の手に負えぬ大名との間の、政治的な闘争である。これは、将軍が無力で、その閣老が無能なため、宗主たる将軍家を無視するに至った結果である。そして、神聖な日本の国土を〝夷狄〟の足で侵させ、貿易による利得を、すべて国家の領主たる将軍家の手に収めようとしている。それはまた、ペリーの日米和親条約(1854年3月、安政元年)と、後のハリスが結んだ日米修好通商条約(1858年6月、安政5年)に対する不満を抱いた闘争であると。
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日本語を操る幕末の英国外交官サトウは、佐藤でなくSatowである。てっきり日本人との間の二世かと早合点していたが、シナと日本の通訳生3名の外交官試験に、トップで合格した正真正銘の英国外交官である。薩摩英国戦争や長州との下関戦争にも通訳官として参戦し、また、関東以西の各地(四国、九州まで)を英国公使代理の名代で、駕篭や馬に乗り、藩主の大名たちを訪問する。
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日本は徳川幕府による238年の間、限りなき太平の夢をむさぼっていた。サトウの言葉を借りれば、日本は森の中に眠れる美姫にも似ていた。国家太平の夢を守る役職の人たちは、姫の安眠を妨げるハエを、扇で追うよりも容易な仕事をしていたのである。
姫の夢が、活動的で旺盛な、西洋人の出現によって破られた時、昔からのしきたりに凝り固まった、年老いて皺くちゃの番人たちには、その職責には耐えられなくなった。そのために、日本を取り巻く、様々に変化する情勢にうまく対応できる、もっと適任な人たちに自分の席を譲らなければならなくなったのである。