【検索結果】"ナリタマサヒロ "の一覧
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世の中には、「嘘つき名人」や「天才詐欺師」という人種がいるが、彼らに共通するのは、自分がついている嘘や偽りを、自ら事実だと信じ込むことらしい。
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強大なパワーや圧倒的な存在というものは、その影響力をさまざまな形で世の中に残すものだ。
それは、軍事や政治面だけでなく、文化や技術にまで及んでいる。 -
「信長公記」など、織田信長に関連する歴史書や時代小説を読んでいると、天正3年(1575)に、突然、嫡男の信忠が「秋田城介(あきたじょうのすけ)」に任じられたという記述が出てくる。
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日本人が最も好きな戦国武将といえば、織田信長だろう。
自らが好んだ「幸若舞」の節と同じく、人間50年の生涯を疾風のように駆け抜けた彼の存在を感じる遺構は、意外なほど少ない。 -
紀元79年のヴェスヴィオ火山の大噴火により、1万人の市民もろとも消滅した都市ポンペイの逸話をはじめ、アトランティス大陸の沈没など、世の人々というものは、「一夜にして、滅び去った……」と、いうフレーズに弱いものらしい。
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今の世の中では、エコロジーとか、リサイクルとか、もったいないとか、ロハスとか、いろいろな言葉が次から次に、生まれてはブームとなって消費されていく。
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「何事も先達はあらまほしきことなり」とは、吉田兼好の言葉で、仁和寺のある法師が岩清水八幡を詣でた時、麓の別の社寺を勘違いした失敗談の感想である。
歴史の中では、時として、必死で頑張ってみたものの、後世の目でみれば笑うしかないという事例が不幸にも発生してしまうものだ。 -
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私は長年にわたり、「日本の歴史」をテーマにライター稼業をしてきた。
私が追い求めるような「ちょっと不思議な歴史発見」は、その数を減らすどころか、ますます増えているように思える。 -
信玄は、「小田井原の戦い」で一方的な勝利を修め、討ち取った三千もの上杉軍の首印を、そのまま、志賀城の包囲陣に運ばせ、城の周りに棚を掛けて、並べさせた。
さらに、城へと続く水の手を切り、干し殺しの城攻めを行なった。
命綱である水の供給が断たれ、さらには、頼りの後詰の援軍が、無残な姿で晒されている光景を目の当たりにした志賀城の篭城兵たちは、俄かに戦意を喪失した。 -
この「幻の戦い」の原型は、おそらく、天文十六年の八月の信州・佐久地方の志賀城攻めの際に行われた「小田井原の合戦」であろうと見られている。
もともと、武田家は信虎時代から、佐久地方に侵攻し、一日に三十六もの城を落とすなどの破竹の快進撃を行なっていた。
この地域のうち、南佐久を治める在地領主の大井氏は、早々に恭順の意を示したことから、信虎を追放して家督を継いだ信玄は、侵略の矛先を佐久から諏訪に変更した。 -
武田家の戦記において、勘助の名が初めて具体的に登場するのは、天文十五年(一五四六)に、佐久侵攻を企てた上杉憲政の軍勢を十月六日に碓氷(笛吹)峠で撃退した合戦である。
実は、この合戦は、『甲陽軍鑑』以外の確実な史料では、まったく確認出来ないこと、さらには『甲陽軍鑑』の記述そのものに、年代や事実誤認の根本的な誤りがあることなどから、「幻の合戦」と呼ばれているものである。 -
当初は、「城取り」の名人として武田家に採用された山本勘助の面目を躍如するかのように、信玄の信州攻略における重要な戦略拠点には、勘助が縄張りをしたとされる城が存在する。
北信の海津城、中信の小諸城、南信の深志城、そして、信州伊那の高遠城である。
これらの城の特徴は、それぞれ、信玄が勘助に命じて、新築したり、あるいは、既存の城を武田の城に改造した拠点であるが、いずれも、自然地形を巧みに防御に取り入れている。 -
『甲陽軍鑑』のこの時期の記述には、山本勘助の名は登場しないものの、その仕事ぶりを示す「物的証拠」は、今日にまで残っている。
そのことを説明する前に、当時の情勢を簡単に解説しておこう。
諏訪頼重を滅ぼした信玄は、その遺領を二分し、半分を諏訪氏攻略に協力してくれた高遠頼継に渡し、残り半分を自らが領有した。 -
勘助が武田家の被官になったのは、まさにこれから、武田家が信州に侵攻しようとしていた時期であり、そのための人材として、採用されたことは、これまで見てきた通りである。
では、具体的に主な合戦記録を見てみよう。
当時、すでに諏訪を前線基地として押えていた武田軍は、この地を足掛かりに、まず、信州・小県郡長門の長窪城攻略戦を開始する。
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