「何事も先達はあらまほしきことなり」とは、吉田兼好の言葉で、仁和寺のある法師が岩清水八幡を詣でた時、麓の別の社寺を勘違いした失敗談の感想である。
歴史の中では、時として、必死で頑張ってみたものの、後世の目でみれば笑うしかないという事例が不幸にも発生してしまうものだ。
その典型が築城法の変化であろう。戦争における兵器や戦術の進化により、従来、難攻不落と言われた堅城も、一夜にして、陳腐化してしまう。
しかし、兵器や築城法の技術革新への乗り遅れは、日本が300年にわたり、鎖国をして太平の夢を貪っていたことに起因するわけであるから、無理からぬところもある。
元和偃武以降、鎖国をしながら、太平の夢を貪っていた日本では、その300年間で完全に世界の技術革新に乗り遅れてしまったが、幕末の動乱の中で、慌てて、最新式と言われる築城法を取り入れた例がある。
いわずと知れた、函館の五稜郭だ。
五稜郭は、武田斐三郎という洋式軍学者によって設計された星型の要塞であるが、築城洋式の世界では、これを稜堡式城郭と呼んでいる。
ヨーロッパでは「ヴォーバン式要塞」として、1680年頃にフランスで考案された要塞構築法であり、従来の中世以来の石積みの城壁では、攻城砲(大砲)による被弾を免れなかったことから、その対策として編み出された新技術であった。
しかし、その後、幕末頃のヨーロッパではナポレオン戦争以降、軍隊の大規模化と共に、野戦が主流となり、攻城戦はほとんど行なわれなくなっていた。
つまり、武田斐三郎が参考にしたのは、当時より200年前の築城法のテキストであり、しかも、そこで説かれていた本来の機能を発揮するためには、五稜郭の5倍の面積の規模での大要塞を構築する必要があったのである。
五稜郭の場合、たまたま、戊辰戦争で旧幕府軍が篭ったので、近代戦争用の要塞のように受け取られているが、その実は極めて防御性の低い防塁に過ぎなかった。
ちなみに、旧幕府軍は五稜郭を援護するために、四稜郭という支城も築いている。
さらに、悲しいことに、江戸幕府の老中や陸軍総裁を歴任した松平乗謨(まつだいらのりかた)は、長野県佐久市に、ミニ五稜郭と呼ぶべき竜岡城を本気で築いているのだ。
当時、幕府きっての開明派と言われた閣僚にして、この勘違いである。
しかし、人々の意識や政治体制が300年前のままであった当時の日本においては、無理からぬ話でもあるのだろう。
※五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期の1866年(慶応2年)に北海道函館市に建造された城郭。当時の正式名称は亀田役所土塁(柳野城)。国指定特別史跡。戊辰戦争の最後の戦いの地として有名で、佐幕派の大鳥圭介隊と土方歳三隊の両隊が五稜郭を占拠し、蝦夷共和国を樹立したが新政府軍に敗北し明け渡された。
所在地 「五稜郭」:函館市五稜郭町44番地
交 通 函館市電「五稜郭公園前」下車、徒歩15分