「信長公記」など、織田信長に関連する歴史書や時代小説を読んでいると、天正3年(1575)に、突然、嫡男の信忠が「秋田城介(あきたじょうのすけ)」に任じられたという記述が出てくる。
「三河物語」という、大久保彦左衛門によって書かれた、大久保氏と徳川氏の関係を記した家訓書の中には、「本能寺の変」に際して、信長が異変に気付いて最初に発したセリフは「城介が別心か(謀反か)」という言葉だったと記されている。
つまり、信忠は26歳で、父・信長と運命を共にするその直前まで、「秋田城介」であったわけであるが、では、この名前の意味は何なのだろうか?
古代の律令制において、いわゆる出羽国が建国されたのは、8世紀に入ってからだという。太平洋側に比べて、日本海側の畿内政権への服従はかなり遅れた事情があった。
それは、この地が蝦夷の支配地だったことによる。そもそも、出羽国は和銅元年(708)に越後国の出羽郡として設置された地域に、さらに同5年に陸奥国に所属していた最上川流域の2郡(置賜・最上)が合併され、建国されたものである。今日の町村合併で、新しい市が出現したようなものだ。
出羽国の範囲は、当初は庄内平野あたりまでだったが、次第に北進し、のちには現在の山形県・秋田県あたりにまで拡大した。その拡大プロセスにおいては、当然、蝦夷の平定が行なわれており、その拠点となったのが、「出羽柵」と言われる政庁兼軍事要塞だった。
この「出羽柵」の正確な位置は、実は判明していない。やがて、天平5年(733)には、この「出羽柵」は秋田村高清水岡へ北進・移設され、天平宝字4年(760)頃には、その地が「秋田城」と呼ばれることになる。
この「秋田城」の国司が、「出羽介」だったために、「秋田城介」と言われるようになり、北方警備の重要性から、国司が「秋田城」に常在し統治に当たることになった。
実際、大変な業務であったらしく、幾度となく、大規模な蝦夷の反乱が起き、天慶2年(939)には、秋田城が焼き討ちに遭い、官舎161宇、城櫓21宇もの被害が出たことが記録されていることから、また、近年の発掘調査から、「秋田城」の壮大な規模が判明してきた。
平安時代の末には、「秋田城」の機能は失われ、その官職名だけが、武門の誉れとされるようになった。
信長が嫡子にその官職を名乗らせたのは、「東北制圧」まで睨んだ、日本統一の戦略の一環であるとする見方もある。
所在地 「秋田城」:秋田県秋田市寺内字焼山
交 通 JR「秋田」駅で下車、秋田中央交通バス寺内土崎線・将軍野線で25分、バスで「護国神社入口」下車、徒歩7分