【第3回】大阪府 真田丸跡に残る戦国タイムトンネル!?
2016.02.10 | ナリタマサヒロ
強大なパワーや圧倒的な存在というものは、その影響力をさまざまな形で世の中に残すものだ。
それは、軍事や政治面だけでなく、文化や技術にまで及んでいる。
例えば、「甲斐の虎」として、織田信長や徳川家康を震撼させた武田信玄については、武田家自体は子の勝頼の代で滅びたものの、そのDNAは影響を受けた戦国大名の各家に受け継がれている。
例えば、「武田流築城術」と呼ばれる、独特の築城法がある。それは、虎口と呼ばれる城への出入り口の前に、丸馬出(うまだし)と三日月堀を配する構造で、信玄が支配した各地の城にその遺構が残されている。
武田家滅亡後、戦国大名として独立した真田氏は、関が原の際にも信州・上田の地で秀忠軍を足止めにするなどの活躍を見せた。
家康は、この真田昌幸・幸村親子を恐れて、高野山の九度山に幽閉するも、大坂の陣が起きると、幸村は監視の目を逃れ、大坂城に入城することに成功した。
この時、幸村は難攻不落と言われた大坂城の弱点を見抜き、南面の平野に防御強化の出城を築いた。
これが、「真田丸」と呼ばれる砦であるが、その姿を俯瞰すると、明らかに「武田流築城術」の「丸馬出」を巨大化したものである。
つまり、祖父の幸隆の代に信玄に仕えて学んだ築城術を、戦国時代のクライマックスである「大坂の陣」で開花させたわけだ。
この築城術の他に、幸村が武田氏より継承したものに、「赤備え」と言われた、赤色に統一された装備一式がある。
ちなみに、「赤備え」は、武田家滅亡後、その遺臣を多く召抱えた家康が、彼らを井伊直政に預けたことにより、「井伊の赤鬼」として、井伊家の正式装備にもなった。
つまり、大坂の陣では、「敵も味方も真っ赤っか!」の状態で入り乱れていたことだろう。
このように八面六臂の活躍をした幸村が、その謀略用に掘ったという穴が真田山公園付近の三光神社に残っている。
実際には、「大坂冬の陣」以降、真田丸をはじめ、大坂城の総堀は徹底的に埋め立てられ、大坂城は丸裸にされているわけであるから、真田丸はおろか、本当の抜け穴などが400年後の今日まで残っているはずはない。
どうも、この抜け穴と称される穴の正体は、古墳時代の羨道の名残のようであるが、いかにもその中から幸村が出てきそうな雰囲気が漂っている。
今の大阪城は、徳川氏が築いた天守台の上に、秀吉の天守を再建したアンバランスな城であるが、周辺の遺構から、豊臣大坂城の頃を偲ぶのも楽しい。
所在地 「真田の抜け穴」:大阪市天王寺区玉造本町14‐90
交 通 JR大阪環状線「玉造」駅下車、徒歩10分