今の世の中では、エコロジーとか、リサイクルとか、もったいないとか、ロハスとか、いろいろな言葉が次から次に、生まれてはブームとなって消費されていく。
しかし、突き詰めてみれば、「使い捨て」などと言った、大量消費社会が到来する前は、誰もが節約を美徳とし、使いまわしが当たり前の世の中だった。
そのことは、歴史的に見ても明らかである。特に、建築資材などについては、一本の柱や梁が、様々な建築物として再利用され、それが何百年にもわたって受け継がれて来ているのだ。
例えば、お城の天守建築である。
天守という構造物は、戦国武将の台頭と歩調を合わせるように出現し、巨大化する進化を続け、江戸時代に入り、世の中が安定すると共に、その発展の歴史にも終止符が打たれた。
その進化の形態は、まるで太古の恐竜の出現から滅亡までの流れのようである。
ただし、恐竜と異なるのは、同種のバリエーションがほとんどなく、戦国武将の趣味や財力、技術力によって、一城、一城が異なった形状をしており、オンリーワンの個性に満ちていることだ。
そういう、もともと成立した時点から「レア」な存在の建築物であったために、所有者や支配者の事情が変わるたびに、その運命も流転していく。つまり、移築や移設といった形で、再利用が繰り返されるのだ。
ここにそうした天守の移築に関する面白い例がある。
時は江戸初期。徳川氏による幕藩体制が固まろうとしていた頃の話である。
徳川家康は、関が原の戦いで西軍に攻め落とされた伏見城をすぐさま復興したが、やがて幕府は京都守護の機能を持った新しい城を淀の地に、新淀城として築くことにした。
それで、伏見城の天守を移築する計画を立て、そのサイズに合わせた天守台を築いていたが、ここにきて、とんでもない横槍が入れられることになる。
京都には、同じく関が原の翌年より着工した二条城があり、そこには奈良の大和郡山城から移築した天守が建っていた。
しかし、家光の代に行われた寛永の大改修において、急遽、例の伏見城の天守を二条城に移築することになり、従来の天守は淀城に代替品として下賜されることになった。
その結果、淀城の天守台には、もともとの設計よりも一回り小さい天守が移築される事になり、それでは見栄えが悪いので、その天守も周囲の四隅に櫓を建て、それらを連結することで、空いたスペースを埋める工夫をしたという。
淀城の天守台の四隅の礎石から、当時の苦労の跡が伺える。
所在地 京都市伏見区淀
交 通 京阪電車「淀駅」下車すぐ