日本人が最も好きな戦国武将といえば、織田信長だろう。
自らが好んだ「幸若舞」の節と同じく、人間50年の生涯を疾風のように駆け抜けた彼の存在を感じる遺構は、意外なほど少ない。
それは、彼の後を継いだ為政者たちが、自らの存在感をアピールするために、信長の痕跡を意図的に歴史の中に塗り込めてしまったことによるのだろう。
それは、信長の居城であった安土城にも言えることである。
「安土・桃山時代」という歴史区分にも見られる通り、かつては、日本の首都でもあった滋賀県安土町は、信長の死後、元の地方の村落に戻ってしまった。
最近では、ここ数年の信長ブームを受けて、安土城跡の発掘が行なわれ、大名屋敷跡などの遺構の復原や、歴史資料館などが多く作られている。
けれども、こうしたいわば、観光目的の復原ではなく、信長が生きた当時の町並みがこの安土城のすぐ近くにひっそりと残っているのは、意外に知られていない。
安土城から峰続きの繖(きぬがき)山の山上には、標高433メートルの場所に近江国守護六角氏の居城だった観音寺城の遺構がある。
現在は、西国三十三ヶ所の三十二番札所である観音正寺が建立されているが、その周囲には多くの曲輪が点在し、山全体が城郭となっている国指定史跡の城である。
山上には、本丸や平井丸、池田丸などの六角氏の有力家臣団の名前が冠された広大な曲輪が、巨大な石を積み上げたままで残っており、中には500年後の今日でも、満々と水を湛えた石組みの井戸なども存在している。
山の南面の斜面には、家臣や国人領主の屋敷を配していたとされるが、今では樹木に覆われて、その全容は判然としない。それでも、日本最大級の山城と言われている。
この地は、琵琶湖交通や大中の湖、さらには美濃から京都へ至る東山道や、伊勢へ抜ける八風街道などがあり、これらを管制できる要衝であるゆえ、古くから城が築かれてきた。
しかし、実際にはその規模が広大すぎて、幾度となく落城の憂き目を見ており、難攻不落とは言い難かったため、信長も敢えて眼下の安土山に新城を築いている。
いや、むしろ、この山は「城」というより、室町時代の京の貴族の邸宅跡が、そのまま山上に残された「町」と捉えるべきだろう。
事実、本丸跡の広場には、曲水の宴を催したとされる石で組んだ遺構が残っていたり、石垣の周囲には、雨水を流す石の樋が設けられている。
ここは、室町時代末期の町並みが残る、「空中都市」なのだ。
所在地 滋賀県蒲生郡安土町石寺
交 通 JR東海道線「安土」駅からタクシー