【検索結果】"ナリタマサヒロ "の一覧
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本文中の繰り返しになるが、上杉謙信という男は、実際、何を考えているのか、把握しずらい面が多くあったようだ。
生涯不犯、毘沙門天信仰、義の人、キレやすい性格、唯我独尊等々……。
これらの信仰やポリシー、性格や性質は、大なり、小なり、誰にでもあることだが、それが人智を超えたレベルであったり、もはや、狂気ともいえる状況に足を踏み入れていた場合、そういう上司を戴く部下の苦労は計り知れないものがあったことは、想像に難くない。 -
【第20回】第四章 信玄と勘助、絶対の信頼関係──上司とのつきあい方
長年の流浪生活時代に広めた諸国の情報などの見聞や、「城取り」のノウハウなどを信玄に逐一、レクチャーすることにより、信玄から絶大な信頼を得た勘助であるが、それらはある意味で、他国者、漂流者ゆえの知識や学問だったといえるだろう。
つまり、信玄をはじめ、武田家譜代の国人領主は、ほとんど甲斐の国以外の情勢を知らず、信玄の父・信虎時代に雇い入れた他国者の足軽大将連中も、基本的には武辺者として、採用されたわけであろうから、当時の武田家の人材において、勘助ほど他国の事情や軍事情報に通じた者がいなかったという状況は理解出来る。 -
大乱戦の中、手薄となった信玄の本陣に謙信が斬り込みを掛けた。
川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、行人包みの僧体の謙信が、放生月毛の馬に跨がり、名刀・小豆長光を振り上げて床机に座る信玄に三太刀にわたって斬りつけている。
これを信玄は軍配で凌ぐも肩先を負傷し、「あわや!」というところに、信玄の旗本が駆けつけたため、謙信はやむなく撤退している。 -
天文十二年当時、すでに老境に足を踏み入れていた山本勘助と、暴君と呼ばれた父・信虎を駿河に追放したばかりの信玄との出会いは、お互いにとって、まさに僥倖とも呼べる巡り合わせだった。
けれども、当時の状況を客観的に見ると、浪人の勘助の側のみならず、信玄にとっても、お互いを必要とせざるを得ない、厳しい環境に置かれていたことは否めない。 -
江戸時代から、その実在については、疑問視されていた山本勘助であるが、その一方で、今なお、そのファンは多い。
その理由は、いくつか、あるのだろうが、何よりもまず、彼の信玄に対する忠義を貫いた生き様が、多くの日本人の共感を呼ぶのだろう。
その姿勢は、どこか、あの「武蔵坊弁慶」に通じるものがあるのかもしれない。 -
このように、信玄にとって諏訪侵攻は、その後の版図拡大路線の第一歩であり、その成功のためには、ほとんどだまし討ちに近い形で、諏訪頼重を自害させ、その領土を強奪した。
実は、諏訪頼重の正室には、信玄の妹の禰々(ねね)が輿入れしており。信玄にとっては、妹婿を謀殺した形となったのである。 -
『甲陽軍鑑』に記載によれば、山本勘助は信玄に面会した当初から、その才能を見抜かれ、知行三百貫の「足軽隊将」に登用されている。
この「足軽隊将」とは、配下に七十五人の部下を与えられた実戦部隊であり、武田家譜代の家臣ではなく、その実力を買われて、他国から招聘されたり、浪人から登用されたものたちである。 -
兵力に勝る上杉軍が殺到した武田軍の本隊は、防戦一方の凄絶な戦闘を繰り広げた。
特に、上杉方の三部隊が集中的に押し寄せた武田信繁隊は、壊滅的な被害を蒙り、信玄の弟である信繁は、壮絶な戦死を遂げた。
この信繁の横で、二の手の備をしていた諸角豊後守も、信繁の戦死を目の当たりにして、「我もお供つかまつらん」と、敵陣に切り込んで悲壮な最期を遂げた。 -
『甲陽軍鑑』に描かれた、「諏訪御料人」の処遇に関する勘助の適切な進言を見てみよう。
品 二十四 「諏訪頼重誅される事」からの現代語訳である。
「天文十三年甲辰二月に、晴信公は信州諏訪に出陣なされた。この時、板垣信方の戦略で、諏訪頼重との間で和睦が成立し、頼重は甲府に出仕することになった。(中略)その後、晴信公は頼重を成敗なされた結果、頼重が治めていた諏訪勢は、悉く晴信公の 敵となり、ふたたび反旗を翻した」 -
いつの世にも、既存の組織や人間関係は、新参者やよそ者には排他的な態度で接するものである。特に、己の既得権益や地位が脅かされるという危機意識を覚えた場合は、彼らの攻撃は、一層激しさを増し、新入りを組織から早々に叩き出そうとする。
勘助の場合も、その半生を費やして体得した豊富な知識や経験を己の付加価値として、古くからの甲斐の守護職の武田家に仕官を求めたわけであるから、その反発も強かった。 -
結果論的に言えば、勘助の献策よりも、謙信の戦略が一枚、上手だったということだろう。
しかし、この妻女山の陣を城に例えると、別働隊を組織して、夜襲を掛けて追い落とし、それを麓で待ち受けるという作戦は、決して的外れと言えるほど、悪いものではない。
事実、時代は少し下るが、かの「長篠の戦い」の前哨戦において、武田勝頼軍が長篠城を監視するために立て篭もった鳶の巣山の武田の陣を、家康軍の酒井忠次率いる別働隊が、夜間の山岳行軍の末に衝いて、長篠城の解放に成功した事例もあるのだ。 -
悲劇の武将・諏訪頼重の美貌の娘、「諏訪御料人」の存在は、武田信玄を題材にした小説やドラマの中で、必ずと言っていいほど、ヒロインとして登場するキャラクターである。
そうしたフィクションの世界では、実名が不詳である為、諏訪湖の静かで透明なイメージと重なりあわせて、新田次郎の小説『武田信玄』では、「湖衣姫(こいひめ)」と、井上靖の小説『風林火山』では、「由布姫(ゆうひめ)」と名付けられている。 -
就職面接とは、いわば、企業と従業員との「お見合い」のようなものである。
その後の運命共同体として、生死を共にする関係を構築するわけであるから、ある意味で結婚を前提とした「お見合い」以上に、真剣勝負である面も否めないだろう。
「お見合い」である以上、双方が納得して、相思相愛になる必要がある。つまり、雇われる側から見ても、「雇ってくれるなら、どこでもいい。」という妥協は、するべきではない。 -
ところが、謙信は武田軍の別働隊と本隊との陣で、炊事の煙が立つのを妻女山の上から見抜いていた。
そこで、すぐさま、諸将を集め、夜が明けぬうちに妻女山の陣を引き払い、雨の宮の渡しを越えて、対岸へと移っていった。
一万三千もの軍勢でありながら、準備する物音も聞こえず、炊飯の煙が立たなかったのは、上杉軍は軍律により、毎朝、三食分の食事を作らせることにしていたために、夜中に火を起こす必要がなかったためだと、『甲陽軍鑑』は解説している。 -
この「信玄家法」の制定に関する勘助の思想は、一言でいえば、「慈悲の心」である。
一国の領主として、自らをも拘束する公平な法令を顕示し、その遵守を領民に呼び掛ければ、治安や民度が向上し、国が発展すること、さらに、そうした平穏な領国の統治により、政治が乱れた隣国を支配下に組み込むことも容易となり、自然と領土も広がることなどを「三段論法」どころか、理路整然に「ドミノ理論」のように、信玄に説いている。
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