【検索結果】"ナリタマサヒロ "の一覧
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就職面接における人となりは、自ずと滲み出るものだ。
信玄は、勘助の経験や知識を聞けば聞くほど、魅了された。しかし、ここで重要なポイントを確認している。
武田家に召抱えるということは、すなわち、武田という組織の中で生きていくことを意味する。長年、勘助が暮らしてきた、一匹狼的な生き方とは、別の資質が求められる。 -
こうした「法令整備」は、おそらく、駿河に長期滞在した勘助が「今川仮名目録」の効用を知り、信玄に進言により、始められたものだろう。
事実、勘助が駿河から甲斐に移った後に、今川義元が追加した条文の内容は、「信玄家法」には、反映されていない。
このような「法令整備」という新たな社会インフラの構築作業に対して、信玄から素朴な疑問が寄せられている。 -
信玄は、早速、勘助に就職面接をした。
まず、その際に勘助の知見について、一通り、語らせている。
よく〝人生に無駄なことはない〟といわれるが、さすがに二十六年もの歳月の間に諸国を遍歴したことは、勘助をして、当代随一の情報通にならしめていた。 -
信玄が海津城に入った後も、上杉軍は相変わらず、動こうとはしなかった。
その間にも、月日は虚しく過ぎて行き、ついには九月となり、さらに九日が過ぎた。
謙信の妻女山の布陣は、すでに二十日以上に及ぼうとしており、もはや、兵糧は尽き、士気も衰え、厭戦気分が陣中に蔓延していたはずなのである。 -
信玄にとって、茶臼山での布陣は、ある意味で消極的なものだった。
「謙信来襲!」の報に触れた時は、すぐさま、海津城の後詰に駆け付けて、城攻めの最中の謙信を背後から突き、城兵と共に挟撃するつもりであっただろう。
ところが、謙信がまったく、海津城を攻める気配を見せないとの報告を受けた時点で、川中島に急行する目的が失われてしまった。 -
まずは、「信玄家法」の制定に関する、勘助の関与を見てみよう。
『甲陽軍鑑』品 二十七「山本勘助、軍法国々の例を引くの事」の現代語訳である。
「天文十六年六月吉日に、晴信公は御考案なされて、領国中に諸法度としての新式目(信玄家法)を制定された。この五十五ヶ条の法度は、軍法のための基である」 -
勘助の武田家への就職のシーンは、『甲陽軍鑑』の中に印象的に描かれている。
すでに兵法家としての勘助の名声は、駿河滞在中の頃から次第に諸国に聞こえており、武田家の重臣・板垣信方は、ぜひとも彼をスカウトすべきと、甲斐の若き国主の武田信玄(当時は、晴信)に推薦した。 -
「謙信が妻女山に陣取る」の報は、二千の兵で海津城を守る高坂昌信からの飛脚により、翌十六日には、甲斐の躑躅ヶ崎舘へともたらされた。
信玄もすぐさま、十八日には一万八千の兵を率いて、甲府を出発しているから、すでに準備万端だったということなのだろう。
しかし、信玄は信州の諸将の参陣を待ちながらのゆっくりとした行軍で信濃へと向かい、六日後の二十四日になって、ようやく、川中島に着陣した。 -
この「信玄家法」を最も世に広めたのは、なんと言っても、「喧嘩両成敗」のフレーズであろう。
「喧嘩両成敗」とは、十七条に定められた規定で、「喧嘩はどの様な理由があろうと処罰する。ただし、喧嘩を仕掛けられても、我慢した者は処罰しない」という内容となっている。
もともと、武士の慣習法を継承したという素地があったのに加え、当時の社会情勢として、浄土宗と日蓮宗の喧嘩が日常化していたという背景も重なり、その公平な当事者責任の方針は、後の江戸時代の武士の裁判方針にまで、影響を色濃く残す結果となった。 -
かの信長が好んで演じた「幸若舞」の一節に、「人間、五十年……」とあり、本人自身も「本能寺の変」で四九歳で横死したこともあってか、当時の日本人の平均寿命は、五〇歳前後だったと広く認識されている。
そう考えると、山本勘助が武田信玄に仕えたのは、四六歳頃だったと推察されることから、当時としては、「定年退職をした男性をスカウトした」という状況だったのだろう。 -
この永禄四年(一五六一)には、関東を巡る情勢は著しく変化した。
まず、三月に上杉謙信は関東管領職として、関東の諸大名を引き連れ、十万の軍勢で北条氏の小田原城を包囲したが、攻め落とすことが出来ずに、鶴岡八幡宮に参拝して、越後に引き上げている。
一方、武田軍は、北信濃の最前線基地として、山本勘助に海津城を築かせ、そこに高坂彈正を駐屯させ、謙信の背後を脅かしつつあった。 -
これまで見てきたように、山本勘助は第一に「築城技術者」として、武田家に採用されたわけであるが、彼の貢献は合戦や築城関係ばかりではない。
むしろ、平時において、一見、地味とも言える武田家の統治体制の整備にまで、彼の持つノウハウや見識を役立てているのだ。
その一例が、「信玄家法」の制定である。 -
改めて解説するまでもなく、武田信玄の覇業には、目を見張るものがある。
江戸時代の初めから、いわゆる武田カルチャーへの信奉者が、武士階級には少なくなかったことは、すでに説明した通りである。
その筆頭たる人物は、いわずと知れた天下人・徳川家康その人だった。 -
これまで解説してきたように、「山本勘助」的存在が、天文十二年(一五四三年)に信玄の元に採用されたとする『甲陽軍鑑』の記述と、その前後から信玄が本格的な版図拡大戦略に乗り出したことは、見事に一致する。
さらには、諏訪に侵攻し、諏訪頼重を破った後、その娘である「諏訪御料人(すわごりょうにん)」を信玄の側室に勘助が推挙したことで、諏訪勢との融和を実現している。 -
このように勘助から見た謙信は、たしかにその戦略や戦術において、刮目するに値する当代随一の戦国武将であったことは間違いない。
しかし、長年諸国を放浪し、九州や四国、中国の諸大名の動向まで把握していた勘助にとって、武田家がこの川中島において、過去に三度も二年おきに上杉軍と戦い、その都度、決着がついていない状況をどう考えていたのであろうか?
6/9