なぜ、実在したと言い切れるのか?
これまで解説してきたように、「山本勘助」的存在が、天文十二年(一五四三年)に信玄の元に採用されたとする『甲陽軍鑑』の記述と、その前後から信玄が本格的な版図拡大戦略に乗り出したことは、見事に一致する。
さらには、諏訪に侵攻し、諏訪頼重を破った後、その娘である「諏訪御料人(すわごりょうにん)」を信玄の側室に勘助が推挙したことで、諏訪勢との融和を実現している。
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これまで解説してきたように、「山本勘助」的存在が、天文十二年(一五四三年)に信玄の元に採用されたとする『甲陽軍鑑』の記述と、その前後から信玄が本格的な版図拡大戦略に乗り出したことは、見事に一致する。
さらには、諏訪に侵攻し、諏訪頼重を破った後、その娘である「諏訪御料人(すわごりょうにん)」を信玄の側室に勘助が推挙したことで、諏訪勢との融和を実現している。